兎の標本 19 神社に行けると聞いた時、戻れるとは思っていなかった。ただ期待が膨れただけだ。 暗い神社の中は、行灯の灯りしかない。蝶が飛んできた。目の前を羽ばたいたアゲハ蝶は、1匹から2匹に分かれた。左右に離れて飛んでいく。 片方の蝶だけを目で追って、蝶は行灯の光の届かない闇の中に消えた。 振り返ると、もう万斎さんはいなかった。祭りの音も消えていた。 ただの夜だった。誰もいない。 服装は元に戻っていた。高杉晋助に出会う直前まで着ていた洋服は、もう、着ていたことさえ覚えていないものだ。 でも、かけられた酒の匂いが残っている。 「…高杉晋助」 聞き覚えのない、これが私の声か。 苦しい日が続いた。 戻りたいと思っていた場所のはずなのに、生活が全くうまくいかない。 「おはよう、さん」 毎朝、顔をあわせる人ごとに挨拶をされる。電話を取れば、相手を話をしなければいけない。喋らないでいると「元気がないけど、どうしたの」と聞かれて、異変はないことを言葉で説明させられる。 自分の名前が自分の名前に思えなかった。誰も私のことを兎と呼ばない。 全ての場面で、言葉を声にして伝えることが強要される。誰もそれを不自然に感じていない。 いっそ取り残されたかったと思う。戻ってくると時間は全く進んでいない。 長い時間を高杉晋助の傍で過ごしたはずだ。向こうでは秋になっていた。 夏の夜さえ、ここでは眠るのに長過ぎる。 テレビも見ない、音楽も何も聞かない。誰とも遊びにいかず、携帯電話も使わなかった。会社で一言二言、何か喋るだけで不自然なほど疲れてしまう。 ベットの上に横たわった。電気を消した部屋の中で、目を閉じてやっと安心する。 頭を骨ごと押しつぶされるような痛みだ。もう毎晩続いている。 高杉晋助も、こんな痛みを感じていたんだろうか。 * * * 「晋助、機嫌がよいでござるな」 晩酌の相手をさせていた。俺も酒は強いが、万斎も同じくらいだ。飲んでも飲んでも、自分で酔いたい時に酔いたい分だけ酔える。 「もはや奇怪でござるよ…いや」 万斎は言いながら盃を膳の上に置く。膳の隣には柳の木で作らせた籠があった。籠の中にはウサギが1匹、仰向けに死んでいる。襖の向こうでは女が一人死んでいる。 「滑稽の域でござるかな」 「…何か弾いてやろうか。お前の浮かれた弦より、いくらかマシだぜ」 立ち上がって、窓辺に立った。 満月だ。死んだ人間の面みたいに白い。 「隣の部屋は処理いたそう」 「斬り殺したわけじゃねえ。抱いてけばいい」 「死体は願い下げる。晋助のお下がりは、なおさら」 万斎に探させていた毒薬が昨日、手に入った。女を抱いてから試して、俺の目の前で効果を確認できた。 苦しみ方は異常だった。喉から潰れていくようでうめき声もなく死んだ。女の息が切れたのを見届けて、一眠りくらいはしたと思う。部屋を出たら万斎が俺を待っていた。 万斎は籠を手に下げていた。兎を逃した詫びと言う。そんなこと、もう何週間前の出来事 だと思ってやがる。 籠の中に入っていたのは、真っ白なウサギだった。 「晋助」 俺は振り返って、窓枠に腰掛ける。万斎は籠の中を見つめながら言う。 「このウサギまで殺した理由は」 「動物に効くなら、人間にも間違いねえよ」 「既に実証されたのに、わざわざ」 「慎重で悪いか?」 籠のウサギは動かない。死んでいるのと眠っているのは同じことだ。俺の目の前で起きないなら、死んでいい。 「面白え話をしてやろうか。万斎」 「拒否権はござらぬな」 万斎は立ち上がって、煙草台に置いてあったキセルを手に取る。俺の正面に立って渡してくる。万斎は言った。 「…実は兎殿が少し、晋助に近づきすぎた気がしたゆえな」 「あいつがいなくなった晩から、実は夢をみてる」 「晋助が安い情愛に目覚めては、由々しき自体でござろう」 キセルを受け取って、一口ふかした。万斎は笑っている。 「斬り殺すつもりで、あの神社に連れて行ったでござるよ」 「…あいつ、頭抱えて寝てやがる。俺の頭痛が移ったらしいぜ」 見た事も無い部屋だった。兎も俺が見た事の無い服装をしている。何の音も聴こえない夢だ。夢の兎は暗い部屋の中で眠っている。目を閉じているだけなのかもしれない。 いなくなって随分経つが、毎晩続く夢の中で兎の様子は変わらなかった。 万斎が俺の隣に腰掛ける。溜息をついた後に言った。 「兎殿を仕留め損なったのは…拙者、これで3度目でござる」 籠のウサギは俺が殺した。迷わなかった。 「人斬りの名がすたるでござるな」 「4度目は俺に譲れよ」 「…もちろん」 兎がいなくなっても俺は何も失わない。探す必要もなかった。 今頃あいつが、一人きりで苦しんでるのがわかる。 目を閉じた俺だけの暗闇の中で、今も兎を飼っている。 back next |