兎の標本
18





夏が終わる。
屋敷から見る空の雲が変わって行く。
新月になってしまえばいいのに、中途半端な細さの三日月の晩だ。
祭りがあるとか、ないとか。晩酌の席で万斎が兎にちょっかいを出していた。

「どうせ晋助は連れていってはくれぬ。拙者と行こう」

珍しく酔っているらしかった。万斎は手酌をしながら、俺の隣に座る兎へ何度も言う。兎は小鉢を片手に、箸を持ったまま俺を見る。俺は兎の目を見ない。酒を飲みながら、正面に座る万斎を観察していた。万斎も俺を観察している。お互いに、兎を挟んでお互いがどう動くかを面白がっている。

「兎殿、晋助は女に執着は一切ござらん。拙者と出かけても妬きはせぬ。さあ」

兎が行くもんか。万斎が足を崩して、四つん這いで兎の方へ近づいた。

「ここの祭りは、出店が並ではござらぬゆえ。他では目にかかれぬものばかり…兎殿の好きなものも多くあろうし」

俺は酒に口をつけた。視界の端で兎は正座したまま、膳の上に視線を落として俯いている。兎の目の前へ、万斎は片手を伸ばした。

「せっかくの機会。ああ、そうそう。初めて、兎殿と晋助が出会った神社が」

兎が顔を上げた。万斎と視線をあわせている。襖一枚隔てていたような2人だったのが、万斎の一太刀で簡単に見つめ合う。

「そう…確か、あの神社のすぐ傍でござる。祭りの場所は」

万斎の口調は不自然に遅くなっていく。兎は俺の盃が空になっていることに気づかない。俺は盃を畳に放った。兎は一瞬だけ驚いて体を縮める。振り向けよ。誰がお前を今、驚かせたか。気づけよ。お前が今何をしようとしているか。
兎の視線は畳の上を転がる盃を見つめていた。
俺は徳利を手に取って、そのまま口をつける。酒は、まだ充分残っている。

「祭りついで。久しぶりに、寄ってみるのも一興でござるよ。あの神社に」

俺を一度も見ないまま、兎は視線を万斎に戻した。兎の様子がおかしい。俺がそのことに気づいていると、兎自身が気づかない。気づけないほど、万斎から放られた餌に耳も目も奪われている。

「拙者と一緒に、祭りへ行ってくれるでござるか」

兎は万斎が言い終わる前に頷いた。俺は何も言っていない。
数秒の沈黙。酒がまずくなった。万斎が伸ばした手に、兎はゆっくりと自分の手を重ねる。

「よしよし、では行こう。晋助、兎殿を借りるでござる」
「おい、兎」

振り向いた顔に酒をひっかけた。兎は瞬間目をつむったけれど、少し遅かったらしい。両手で目を覆って、むせながらその場にうずくまる。

「酔い混じりの方が、楽しいぜ。祭りは」

俺を置いていけるだけの度胸を、褒めてやりたい。
畳に顔を伏せて咳き込む兎を、両脇から抱えるように万斎が立ち上がらせる。兎は少し、泣いているようだった。


祭りから、兎は戻ってこなかった。
万斎が言うには、神社へ連れて行って、振り返ったら姿を消していたそうだ。2人で歩いていた時、アゲハ蝶が飛んできて万斎はそれを目で追った。その一瞬で兎は万斎の視界からも、神社からも逃げ失せた。




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