兎の標本 17 座ったまま伸ばした手で、高杉晋助の腕に触れる。肘から二の腕、付け根から肩へと手のひらを滑らせて、ゆっくりと抱き締める。 高杉晋助が私の腕に頬を寄せた。背中に腕がまわされて、きつく力が込められる。息が苦しくなったけれど、許せると思った。 「…昔、あの人から褒められたことがある。俺の体の中で、耳の形が…綺麗なんだとよ」 高杉晋助が私の背中に回していた腕を片方ほどいて、私の手を捕まえた。そうして、自分の耳を触らせる。ひんやりと、薄い形の耳だ。 「自分じゃ見れねえところだからな…俺は面白くなかった。そう言ったら、あの人は撫でてくれた。」 そっと、触れていた耳を指先で撫でる。高杉晋助が大きく肩を揺らした。 「止めるな…もっと」 耳から手を離そうとしたのを制止する。言われたとおり、もう一度高杉晋助の耳に手を触れると。細い骨の曲線をなぞるように撫でてみる。複雑な、ひだのように骨の入り組む耳の内側も、ゆっくりと指の腹で触れていった。 確かに綺麗な耳なのかもしれない。 深く切れ込む耳の後ろに、中指を滑り込ませる。 爪をたてないように気をつけて、その付け根をなぞっていると、高杉晋助が短く息を止めて背中を反らした。 呼吸が不自然に途切れたまま、高杉晋助がゆっくりと畳に崩れ落ちる。私も引きずられて、高杉晋助の体の上に倒れ込んだ。 高杉晋助の呼吸が不規則になる。短い間隔で息を吸った後に、長く吐く。熱くて、湿っている気がした。 いつの間にか隙間も無いほど抱き締められているのに、高杉晋助は膝を私の足の間へ割り入れて、先へ先へと進めてくる。私は高杉晋助の太股を両足で挟み込むように、高杉晋助は私の片足にまたがるように、お互いの足が交わっている。 太股にあたるものの感触が、変わっていくことに気付いていた。熱を持っている。少し濡れてさえいるようだ。いつもなら、もうとっくに中へ入れられてしまっているだろう。 高杉晋助の呼吸が、いつもよりずっと深くなっている。それに合わせて、腰を押し付けるように動かしているのを、その意味がわかっていても避けられない。太股にあたる熱が前後にこすれて、硬さを増していくのを、ただ嬉しく感じている。 高杉晋助の耳を撫でていた指を、耳たぶに触れさせた。 「…もういい。やめろ」 掠れて、ほとんど聞こえない。 私の背中にまわしていた腕で、高杉晋助が力一杯に爪を立てた。息をとめているようだ。足の付け根にまで押し当てられていたものが、小さな痙攣を起こそうとするように、ほんのわずかに震えている。張りつめて、きっともう出てしまうまであと少し。 もう一度、指先で耳たぶに触れる。そこから耳の一番外側の輪郭をなぞりながら優しく撫でた。まるで、太腿にあたっているそれを撫でているのと同じだと思った。 「やめろ…殺されてえか」 やめたくない。 聞こえているから、わかっているからこうしたいのだ。 高杉晋助が私の目の前で、私の体を借りて自慰をしている。信じられないことだけれど、それを感じてみたいと思った。 もう片方の手を伸ばして、ずっと触っていなかった方の耳を、包むように撫でてやった。 両方の手で、左右の耳を指の腹を使ってやんわりと挟む。 高杉晋助が私を一層抱き締めた。 もう、中に入れられておかしくないほど、高杉晋助は腰を乱す。吐息を殺しているけれど、あまりうまくいっていない。 少しずつ、少しずつ声が漏れだして、苦しそうだ。 * * * いつもは冷たい体の兎のくせに、触れ合う皮膚が熱い。こすれあって、濡らしあう。 呼吸が苦しい。もうずっと口を開けたままだ、俺は荒れた呼吸を繰り返す。唾液が垂れて、下唇から顎を伝って、兎の肩に落ちた。兎はそれを横目で見る。嫌がらなかった。満足そうに少し笑って俺を見た。声の出せない唇で、何か言う。俺には聴こえない。 肩を濡らす唾液を人差し指ですくいとる。兎の口元へ、その指を持っていくと、兎は唇から舌を出して舐めた。 「汚ねえやつ…」 兎は俺を見る。俺の指先を掴んで、口の中へ入れさせた。 ああ、くる。体に広がっていた快感が、一ヶ所に集まっていく。 俺の情欲が兎の体に染みていった。 今、自分が食われていくのがわかる。胸にある何かの残骸だ。 もう死んだと思ったものが、まだ生きていた。それが兎を捕えて食らう。 あの日、心が割れて、ほとんどの欠片を失った。でもその隙間の分だけ自由になった。とても身軽になれたんだと思う。もう何をしても戻らないと思うと、どんなものも壊すことが楽しめた。 兎は俺にとって幻想かもしれない。俺の中に隠していた愛しいものに、とてもよく似ている。捕まえてみたかった。それをひたすら貪ったら満足できる気がしていた。 初めて兎が俺を抱き締めて、慰めるように俺を求める。ずっと焦がれていたのかもしれない。初めて知る味、今までの飢えが満たされていく感触が心地よくて、いっそ恐怖だ。正気でいられそうにない。 自分が崩れていく。でも初めて、心が生きているような気がした。 瞳が暗い。暗闇を溶かしたように何もかもが沈み落ちていく。 兎なんて死ねばいい。ああ、これが愛しいってことか。 腰の動きを早めた。もう、兎の顔を見て何かを考える余裕はない。兎の肩をつかんで体が動かないよう固定して、自分で自分の快楽を急かす。 * * * もうすぐ、足の間を白い液体が汚すだろう。あの中には、きっと高杉晋助の心の欠片が溶けている。自分がこれを待っていたことに、初めて気付いた。 白く濁って、独特の匂いをしていて、高杉晋助は自分の体から出したくせに、いつも臭いからすぐに湯浴みしてこいと言う。自分もすぐに入浴する。終わった後、そのまま布団の上で語り合ったことは一度も無い。 確かにあれは、吐き出されてしまった後はただの精液でしかなかった。 けれど今、出されるまでの間に初めて色んなものが混ざり合っているのがわかる。綺麗な憧れも、低俗な性欲も、爪の先に針を刺すような痛みも、口付けられる喜びも、全てが高杉晋助の心の底に沈んでいた化石のような感情だ。 腰を強く押しながら、高杉晋助は私の足の間に精液を出した。太腿から股の奥にかけて飛び散って、粘性を保ったまま肌にはりつく。水のようには流れてはいかない。 中に出される時は気付かなかったことだ。出されたばかりの精液は、熱くない。けれど、人の体温を十分に感じるほどには生ぬるい。 これが高杉晋助の温度と感触だ。 * * * 夜が明けきるまで兎を何度か抱いた。世界が終わる夢のように、深海から見上げる夜空のように、兎の中に落としたものは俺のところへ戻らない。 あの人を失って、世界は一度俺の前から姿を消した。 硝子の破片を満たした水槽になってしまった。 何度もその中に手を入れては、何も掴めず引き抜いて、また沈めることを繰り返して、痛みを感じなくなるほど生きてきた。 初めて今、指先が赤い心臓を掴んでいる。これが兎の心臓だ。お互いの皮膚だけを隔てて俺の胸のすぐ傍にある。 この日を境に頭痛はほとんど消えた。 back next |