兎の標本
16





兎と呼ばれる生活に戻った。
そうして相変わらず、高杉晋助は夜中に何度か目を覚ましている。起き上がった後、高杉晋助は額を押さえながら、軽く前髪を掻きむしる。石を吐き出そうとするような呼吸の音。
私は背を向けて耳を塞ぐ。私にできることも、すべきことも一切ないからだ。高杉晋助も、私に助けは求めてない。


その晩、いつもより特にひどかった。
高杉晋助が布団から抜け出す。
知らない、私には関係ないこと、無視していい。言い聞かせて、しばらく横になったままでいた。そうありたい、と思うことを実行しているはずだ。なのに、落ち着かない。
薄く目を開けてみる。高杉晋助は窓際に腰をかけて、キセルを吸っていた。月明かりを背に、少し背を丸めた姿勢だ。キセルを持っていない方の片手で額を押さえていた。白い包帯がほどけかかっている。なのにまた、前髪をかきむしる。

私の方まで、頭が痛いような気がしてくる。完全な錯覚だ。
だって高杉晋助なんて、苦しんでしまえばいいと思ってきた。高杉晋助の心が苦しむなら、いくらでも放っておける自信がある。
でも、体が苦しむのは見ていられない。
その理由を探して、行き着く答えがぼんやり見えてしまう。
認めたくない。
優勢になっている気持ちを確定すれば、私は逃げ出す理由も失う。

だから…そうだ、同情。それなら、いい。私は高杉晋助のことを哀れんでる。だから高杉晋助の傍へ行こう。
体を起こして、布団から出た。ゆっくり近寄って傍へ立つと、高杉晋助が私を見た。

「馬鹿が。…呼んでねえぞ」

変わらない人だ。ちっとも優しくならなくて、隙が無い。なんだか安心する。



初めて会った夜のように、高杉晋助の足下にうずくまろうか。
少し迷って、視線を上げる。その時に気がついた。キセルを持つ彼の手が震えてる。吸い口に唇をつけて、ゆっくりと煙を吐く動作はいつもどおり。でも、その間ずっと、キセルを支える高杉晋助の右手は、ただ細かく、絶え間なく、震えている。

「…面白えだろ」

悲しくなる冗談だ。
私は首を横に振って、高杉晋助の隣に腰を下ろした。
高杉晋助と目線を合わせて、隣に並ぶのは初めてだ。


もたれかかるように体を寄せても、高杉晋助は「離れろ」と言わない。私が傍にいるのを許して、私を見つめた。

「…夢にな、お前が出てきやがる」

高杉晋助の視線が私から離れて、キセルを持つ手は、まだ震えている。

「やたら上機嫌で…辟易してんだ。まあ、抱いたついでの夢心地ってやつなら、お笑いだがよ」

高杉晋助は喉の奥で笑いを漏らした。夢と違って目の前の私は、どうせ愛想がないとか、面白くないとか言いたいんだろう。予想をつけれる程度に私は彼を知っている。

「何度も俺を呼ぶんだ。晋助、晋助、晋助…ってな。歌でも歌いだすかと思ったぜ」

優しい声の高杉晋助は珍しい。何かがおかしいと思った。
ほどけてしまいそうな包帯が、左目をまだ少し隠している。その左目は、きっと心の底からは笑わない。

「…あの人の声だった」

そんなこと、私は知らない。もう、キセルを持つ指先は震えていない。震えているのは私の方だ。

「俺の名を呼ばなくてもいい。俺を褒める言葉でも、励ます言葉でもなくていい。慰めてくれなんざ望まない。もう一度、聴きてえんだよ。…あの人の声が聴けるなら」

高杉晋助が目を閉じる。

「悲鳴だろうと構わねえ」

まるで、正義だけを愛して信じる少年みたいな感情。

こんなに救いようもなく遠かったのか。
わかっていたし、それで良かったはずだ。近くにいるのは体だけ、それが充分すぎる負荷だった。ほんの少しの今だけの我慢だと言い聞かせて過ごしてきた。私がここを去って何もかも離れて消えることを望んできた。
なのに今、最初から繋がりなんて無かったことが、どうして腕をもがれるような痛みに思える。
どうして今頃。答えがわかっているから問いたくない。

伸ばした手で、高杉晋助の首に触れる。ゆっくりと身を寄せて、背中へ腕をまわした。
抱き締めると呼吸が苦しい。高杉晋助は黙ったまま、私のすることを許している。いつもならきっと命令して拒んでいるはずだ。私だって拒まれたいはずなのに。

「おい、兎」

もともと返事はできない関係だ。でも、もし声が出せていたら。

「…抱かせてやろうか」

月が雲に隠れた。窓の外が、高杉晋助の瞳みたいに暗い。
広がる暗闇に、心が沈んで落ちていく。もう拾えないかもしれない。


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