兎の標本
15





キジマさんは優しかった。
私の声が出ないとわかった時に、紙とペンを渡してくれた。私に具体的な、言葉の返事を求めてくれたのは、キジマさんが初めてだった。
「いつまでもは、世話してやらないっすよ」
キジマさんは、いつも言う。それでも着替えやその他に必要になったものを貸してくれて、ご飯も布団も二人分ちゃんと用意してくれる。キジマさんの着物の中で、私が着られるような普通のデザインのものはごくごく少ない。でも、真っ白なだけの着物を着続けていたので、柄があるだけで新鮮で嬉しかった。
もう数日過ぎた。高杉晋助のことは、頭痛のことが少し気になる。戻りたい、とまでは思えない。キジマさんの傍にいるほうが、呼吸すら楽で居心地がいいからだ。


夜、キジマさんがケーキを買って来てくれた。折りたたみの箱に4つほど。どれがいい、と示された時、嬉しいよりも先に身構えた。

「あれ、ケーキ嫌いなんすか」

首を振る。手元に置いていた、紙とペンを取った。

【前に、もらったマドレーヌの中に毒が入ってたことがあるから】

キジマさんは驚いた顔をする。そこからは、いつものように言葉と文字の会話になった。

「それ本当っすか!許せないっすね…毒盛るなんて、やり方が卑怯っすよ」
【卑怯というか、怖かったです】
「いーや、卑怯なとこが許せないっす。顔が見えてたら、この早撃ちで絶対に仕留めてやるだけっすよ。確実にぶっ殺す」
【私は早撃ちが、できません】
「あ、そっか…。まあ、結局食べなくて済んだんっしょ?」
【食べる前に、捨ててくれた人がいたので、一応は】
「命拾いっすね。そいつに礼を言っとかないと」

キジマさんは言って、ケーキを手で掴んでそのまま食べた。

「ん、美味しい!」

私もそれにならって、箱の中に入っていた苺タルトを手に取る。
一口食べて、見た目どおりに美味しかった。隣で一緒に「美味しいね」といってくれるキジマさんがいてくれるからかもしれない。安心して、ゆっくりと味わえる。

【とってもおいしい。ありがとう。本当においしい】

ケーキを左手に持ち替えて、空いた右手で書いた後、キジマさんに渡す。キジマさんはそれを読んで、澄まし顔をしていたけれど、笑ってくれた。私も笑う。
お茶を飲んで、ケーキをゆっくり食べて、声と文字の会話を眠るまで延々と。キジマさんとの時間を楽しく感じる。
高杉晋助の傍にいた時とは正反対だ。高杉晋助とキジマさんが?
違う。私だ。私の気持ちと態度が、正反対なんだ。


他にどこへ行けばいいかわからないし、死ぬよりいいと思うから、言われるまま傍にいた。高杉晋助を必要以上に見ないように、考えないようにしてきた。逃げ出す機会をうかがって、我慢をしてきたんだと思う。
高杉晋助は私に対して優しくない。でも私だって、それ相応の振る舞いをしていたんじゃないのか。

タルトの上に乗せられた、苺が一つこぼれ落ちそうだ。
落ちる前に食べておこう。顔を少し傾けて、舌の上に苺を落とす。少し酸っぱい。
でも今までで一番美味しかった果物は、あの晩高杉晋助がくれた夏蜜柑だった。
あの時も、お礼は何も言ってない。

ずっとそうだった。食事も寝場所も、それなりに高杉晋助から分け与えてもらっていたのに、お礼なんて言った覚えがない。
声が出ないのを言い訳にしていた。高杉晋助のところへ無理矢理連れてこられて、可哀想な自分だとすら思っていた。みじめだとか、辛いとか思ったことも、何度かは本当にあっただろう。でもそれが全てだったわけじゃない。
ただ自分で自分を哀れんで、高杉晋助を怖がりながら、誰かが助けてくれるのを待っていた。だから私は今、キジマさんにこんなに甘えているんだ。助けてくれたと思って、ずっとここにいさせてくれたらいいと思ってる。

「…どうしたんすか。ケーキ、何か変な味でもしたんすか」

首を振った。キジマさんは、切れ長に大きな目を少し不安そうにして、私を覗き込む。ペンを手に取った。

【お礼を言いにいきますね】
「え?誰にっすか」
【毒の入ったマドレーヌを、捨ててくれた人】
「ああ、そうした方がいいっすね。…相手も喜びますって、絶対」

ただ感謝するだけで、私はキジマさんに何も返せない。わかっていて、その状態のまま好意に甘えるのは、相手を貪っているのとどう違う?
せめて相手が高杉晋助なら、本当に微々たる、最低に近いほどくだらない少しの時間のことを、私は確実に返すことができる。




起きよう、と思いながら眠りについた甲斐があった。
明け方が近い真夜中は、静かで目を開けても夢の続きのようだ。
起き上がると、隣でキジマさんは眠っている。音をたてないように、ゆっくりと静かに自分の寝ていた布団を畳んだ。
襖の傍に置いてある机に、お礼を書いた手紙を残して部屋を出た。

誰もいない真っ暗な廊下を、不思議な気持ちで歩く。迷うかと思ったけれど、道は覚えていた。
牡丹の花が描かれた襖を開ける。

部屋の中は暗くない。敷かれた布団の枕元に、小さな四角い光源があった。

「……部屋、間違ってんじゃねえのか」

高杉晋助は、布団の中でうつ伏せに寝そべって、上半身だけ肘をついて起こしていた。枕元にいつものキセル台と、紙が何枚か置いてあった。キセルを左手に、右手で紙を一枚持ってそれを眺めている。

傍へ行って、布団のすぐ隣へ座った。高杉晋助の髪が少し濡れているのは、入浴を済ませてから、時間があまり経っていないからだろうか。手元の紙に視線を落としたまま、高杉晋助は動かない。
手を伸ばして、髪を少しの束だけ指先で掴んで、軽く引っ張る。
高杉晋助がこっちを向いた。右目を細めて、笑いながら私を睨む。

「寝ぼけてんじゃねえよ。たたっ斬って…目え覚ましてやってもいいんだぜ」

久しぶりに聴いた声だ。高杉晋助の感情を、できれば正確に読み取りたい。
少し身を乗り出して、高杉晋助の髪を手のひらで撫でた。

「…来島んとこは、もう飽きたのか」

飽きてない。でも、ずっとは居られない場所だ。
髪に触れていた手を滑らせて、こめかみの位置で止めた。高杉晋助が、短く息を吐く。キセルと紙を置いて、枕元の光源の囲いを少しだけ持ち上げた。中の灯りが吹き消される。部屋が一瞬で暗くなった。

高杉晋助に触れていた手が、不意に離された。
まだ傍にいるはずだ。手をもう一度伸ばして、慎重にあたりを探ると、すぐに指先が触れた。柔らかい皮膚と硬い骨の感触は、高杉晋助の肩だった。着物が着崩れてしまっているらしい。上半身を起こして、私の方に体を向けて座っている。
肩から首へと指先で辿りながら、膝立ちで近づいた。

何も見えない暗闇なので、うまくできないかもしれない。少し不安に思いながら顔を近づける。触れる直前、唇が熱を感じた。高杉晋助の体を、薄い熱の膜が包んでいる。
口づけて、背中へ回した両腕で抱きしめる。
熱の膜は消えてしまった。私自身がその熱になってしまったせいだ。

「…随分、長いことほっつきまわって」

高杉晋助の気持ちは、今、怒っていない。でも喜んでもいない。

「何とか言えよ。来島んとこで…お前、饒舌だったじゃねえか」

どうしてだか、筆談をしていたことを高杉晋助は知っている。
でも暗闇の中では、したくても無理だ。高杉晋助の耳元へ唇を寄せた。

【とっても、楽しい時間でした】

囁いてみても、音にはならない。ただ息が漏れただけだ。これじゃあ駄目だろうな、と残念な気持ちになる。高杉晋助は、きっと満足しない。

「…他には」

ずっと続いていた耳鳴りが、突然止んだような気さえした。
胸の中で氷が割れる。
聞こえてないはずの言葉なのに、高杉晋助が初めて返事をしてくれて、注意を向けてくれた。私の返事に、耳を傾けてくれている。高杉晋助が初めて。

【今まで、ごめんなさい ありがとう】
「…うん」

高杉晋助が、私の背中に腕を回す。抱きしめてくれた。
声が出なくてよかったと心から感謝する。思っていること何もかもを、そのまま言葉に変えても伝わらない。伝わるのは、私が伝えたいと思っているその意志だけだ。安心して、高杉晋助を抱きしめ返した。耳元で告白をする。

【まだもうしばらく、あなたの兎でいます】
「ああ…くすぐったい」
【もしかすると 私はあなたを】
「他へは行くなよ。色々…追っかけんのも、面倒なんだぜ」
【いつか 好きになるかもしれない】
「…お前に言っても、無駄だろうが」

無駄じゃないと伝えるために、何かをしたいと強く思った。
高杉晋助の心を捉えて、圧迫できるようなことがいつかできたらいい。




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