兎の標本
14





兎が逃げ出したのは、その晩だ。
珍しく兎が夜中に部屋を出たことには気づいていた。放っておいたら、そのまま戻ってこなかった。万斎に探させようかどうか少し迷って却下した。
遊郭へ連れて行くなんて俺が言ったものだから恐ろしくなったんだろう。
それとも目隠しをとらないまま部屋を出て、迷って戻って来れないのか。

「どうせ晋助が、また何かつまらぬことを言って脅かしたのでござろう」

俺が朝食を食べる正面に座って万斎は言う。
久しぶりに自分の手で箸を使うと、食事は面倒な作業だった。茶碗を持ち上げることも、次に手に取る小鉢を選ぶことさえ億劫だ。
箸を膳の上に置いた。もう食いたくない。茶を飲んでキセルを取った。

「俺がいつ兎を脅した」
「いつも、いつでも」
「優しくしてやってんぜ。これ以上ないくらい…いつも」

退屈させたら不憫だと思って、殺すように愛するようにあやしてやってる。それは優しさだろう。自由だって与えてる。こうやって俺の元から姿を隠せたことが、十分に自由な証拠だ。

「…拙者と晋助では、優しいの定義が違うようでござる」
「さあ。同じだと思うがな」

万斎が襖を振り返る。俺も気づいて襖を見た。

「晋助様。来島です」

部屋へ来るのは珍しい奴だ。俺の顔を見れば、来島はいつもわかりやすく熱の上がった素振りになる。そのくせまとわりつかない節度の良さは銃の腕に正比例だ。

「開けていいぜ」

襖が開く。来島が膝をついて伏せていた顔を上げた。俺を見て小さく息を吸う。それと同時に万斎に気づいて顔をしかめた。万斎はもう襖に背を向けて来島を無視している。

「あの…晋助様に、お話があるんすけど」
「ああ。話せ」
「えっと…」

来島は万斎を睨みつけて舌打ちした。わかりやすい行動は微笑ましい。万斎は振り向かないまま言った。

「また子殿は拙者が邪魔か」
「わかってんなら早く席外してくださいよ」
「晋助。拙者は邪魔でござるか」
「…いいや」

お前が邪魔なのは兎が傍にいる時だ。万斎は首を巡らせて来島を見る。

「だ、そうな。また子殿、さあ話をどうぞ」
「もういいっす。出直します」

来島が立ち上がって、襖を力一杯に閉めた。

「お前、意地が悪いな」

万斎は頷いて笑っている。お互い様だな、と思った。



「それより晋助。この前、晋助が池に放って鯉を全滅させた毒でござるが…」
「ああ、お前が兎の奴を仕留めそこなった、あの毒菓子か」

万斎の言葉を耳で流しながら考える。
それにしても、来島の様子は少し妙だった。後で屋敷の誰かにでも、もう一度俺の部屋へ来るよう呼びにいかせようか。ただ来島なら、万斎を追い出せばすぐにやってくるかもしれない。

「異臭なし。効くのはきっちり半日後、微量で確実に死に至る。どうでござろう」
「…仕入れ先は」
「掴んでおる」
「会えるか?」
「会えるが、商談が成立するかどうかは…晋助次第」
「はっきり言えよ」
「妻帯者でないと、主が毒を売らぬそうな」
「…くだらねえ」
「まあまあ、拗ねるな晋助。妻帯者でなくとも、あれでござる。可能は可能」

万斎は襖の前へ行く。しゃがんで、襖に描かれた牡丹の花を一つなぞった。万斎には似合わない動作だ。カラスが花の蜜でも飲もうとするように、不毛で無意味。

「それなりに大事に囲っている女でも持っていれば、応ずるらしい」
「へえ。要は、俺に商談の機は無いと」
「……兎殿が姿をくらましておるとあっては。確かに」
「馬鹿言え。あれが女のうちに入るかよ」

あれが女だったら、道ばたに落ちてる雑草でさえ女に数えて不自然じゃなくなる。俺が笑っていると、万斎もつられたのか唇の端を上げた。

「晋助のところから逃げ出したのでござろう。ならばもう…兎どころか、ただの女でござる。見つけたら、斬ってよいな」
「執着してんな。俺が先に見つけたら?」
「晋助の好きなように」
「寛大なこった」
「飼い主の一存を優先したまで。さて…拙者はまた子殿のところへでも、行ってこようか。先ほどの話の内容が気になるゆえ」

万斎は立ち上がった。

「もしかすると、また子殿は兎の行方に心当たりでも…」
「万斎」

襖にかけた手を止めて、万斎が俺を振り返る。

「先に商談の段取りつけてこい。兎狩りは、その後だ」
「……はいはい、了解」

兎が屋敷の外へ逃げ出せたとは思えなかった。
万斎が出て行った後、しばらくキセルを吸って考える。仕方ないので俺が来島のところへ出向くことにした。



丁度、部屋から来島が出て来たところだった。俺に気づくと瞳を大きくして、喜んだ顔になる。そのすぐ後、口元へ手をあてて視線を伏せた。

「万斎との話は済んだぜ」

俺が近寄っていく間、来島はその場から動かない。来島が廊下の真ん中に突っ立っているので、俺はその先へ進めなくなる。

「で、話は」
「その…晋助様」
「兎のことか」

来島が素早く顔を上げた。兎と違うな。視線一つとっても来島は俊敏で鮮やかだ。

「昨日の夜中なんすけど…」
「ああ」

昨日の夜も頭痛がひどかった。気でも紛らすために兎を抱こうと思っていたら、俺が腕を伸ばすより先に、兎が静かに部屋を抜け出した。俺の寝息を確かめもしなかった。だから、すぐ戻ってくると思った。

「厠の前で会って、困ってるみたいだったんで…。今は、自分の、来島の部屋にいます」
「困ってる…ね。お前、随分親切じゃねえか」

俺が視線を向けると、来島は慌てて言葉を足した。

「着物が汚れてたんで!…泥とかじゃないっすよ。その、あれです」
「月の障りか」
「あ、はい」

解けてみると、あっけない。ただ来島の世話になってそのまま朝になっただけのことだった。
日がもう高い。廊下の窓からは光が差し込んで、来島の髪が金色に透ける。兎の髪とは違う。来島の長い睫毛が目の淵に影を作った。その影の色だけが、兎に重なる。夜の月さえ拒むように、兎の目はぼんやりと暗い。俺の姿が溶け込むほどの闇なので、兎の瞳を眺めていると安心できた。いつでも死ねるし、もう死んでいるような気になる。

「晋助様。もうしばらくだけ、私のところに置いておいたら駄目っすか」

来島は少し低めた口調で言う。万斎といい来島といい、何かの笑い話か。武市まで兎を気に留めだしたとしても、もう驚けそうにない。

「早めに俺んとこに戻しておかねえとな、万斎の奴が斬っちまう」
「え!じゃあ…ちょっと戻るかどうか、訊いてきます」
「誰に」
「…晋助様の」
「兎にか」
「あ、はい」

来島が面白い勘違いをして、くだらないことを言っている。

「お前が伺い立てるほど、あいつは大した身分じゃねえだろう」
「でも晋助様の」
「兎さ。ただの。…お前が庇う必要がどこにある?」

来島は言いかけた言葉を飲み込んで、そっと廊下の端へ道を空けた。
部屋の前に立って襖を開ける。
奥に敷かれた布団に兎はいた。気持ち良さそうに、少し身体を丸めて目を閉じて横になっている。俺の隣で眠るときは、こんな風にいつまでも布団にくるまっていない。万斎のところにいたときでさえ、安心した表情では眠っていなかった。

「晋助様。あの…実は」
「手間かけたな。すぐ連れてく」

開けた襖から入り込んだ日差しに、顔を照らされているのに兎はまだ起きない。布団からのぞく着物の襟首は、桜と血を混ぜたような濃い緋色だった。来島から借りた着物を着てるらしい。宝石箱の蓋のように、しっかりと優しく瞳を閉じて眠っている。俺の知らない兎だ。少し遠い気持ちで眺めていた。
入ってすぐ、備え付けられた書記台があった。
紙が1枚だけ、折り畳んで置かれている。白い紙は、兎がいつも着ている着物と同じ色。端の揃わない無造作な四つ折りにされていたのを手に取って、開いてみた。

   たかすぎしんすけは いつも優しくないから
   たかすぎしんすけの機嫌が直るまで 帰りたくない


「他に、何か言ってたか」

振り返って来島の方を見た。
来島は俺の手元を見て、顔をひきつらせた。黙って首を横に振る。

「そうか」

部屋を出て襖を閉めた。
廊下の端に立つ来島は俺の言葉を待っている。

「伝えとけ。…お前が戻ってきさえすれば、いつでも機嫌は直してやるよ」

来島は表情を殺して頷いた。


たかすぎしんすけ、たかすぎしんすけ。まるで子供の手習いだ。
俺の名を音では知っているのに、呼べない兎は字を知らない。

今は、まだ帰りたくないというなら、待ってやろうと思えた。兎が俺のところを帰るべき場所と思っているなら、どこへいようが心を捕まえているのと同じだ。

兎は雲のように浮ついて、抱き潰すと霧雨のように音も雫もみえない涙を流す。だからきっと俺は手放せない。不安定なものは、いつ壊れるか期待があるから楽しめる。真冬の花より儚くて、明け方の夢より確かな期待だ。できるなら、いつまでも長引かせておきたい。そのためには、壊れる前に休ませるのもいいだろう。

立ち止まって、もう一度白い紙を開いて眺めた。

いつか、どんな声でこの文字を書いたのか聴けたらと思う。
俺だけに聴かせてくれたら、心置きなくあの喉を潰してやれる。




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