兎の標本 13 鯉は全滅だった。 池に浮かぶ鯉の死体を見た後、兎は横目で俺の様子をうかがった。 顔を向けてやると視線が交わる。その瞬間、初めて兎の顔に恐怖がにじんだ。 胸がうずいた。 俺の傍で寝起きしてる奴が、今更何を怖がるってんだろう。 繊細な硝子細工を手のひらに乗せて、地面へ叩き付けたくなるような衝動だ。砕けた破片を見たい。硝子は滑らかな曲線を描いているよりも、皮膚が切れるほど鋭い角度の方が綺麗だ。 でもその欠片すら光を反射して輝くなら、俺は泥と汚物の中へ踏みつけてやりたい。 しばらく中庭を歩いた後、部屋へ戻った。 その晩も、眠っていて夜中に目が覚める。 ここ最近特にひどい。以前には一度もなかった。眠っている間に始まって、痛みに引きずられて目が覚めてしまう。いつからこの頭痛が始まったのか。 「鬱陶しい…」 呟くと、隣で俺に背を向けていた兎の肩が少しだけ揺れた。起きていたらしい。 「兎」 呼んでやっても動かない。 「…まあ、そうだろな」 息を殺しているのか、兎は置物のように体を硬直させている。平坦な体を包む白い着物も、だいぶ見慣れた。 そうだ、兎がきてからかもしれない。兎がこうして傍で眠るようになってから頭痛が刺すような痛みに変わった気がする。 布団に体を倒した。兎の着物の襟首を掴んで、兎の体を反転させる。横になったまま向き合うと、兎は瞼に皺が寄るほど力をこめて固く目を閉じていた。 「近くにいる奴を殺したくなるほど、頭が痛えんだよ」 顔を寄せて、兎の額にかかる前髪をかきあげた。 「…お前ならどうする」 額をあわせる。兎が慎重に目をあけた。 驚いたり怯えたりしたときの、青ざめた兎の表情が好きだ。 言葉で気持ちを吐き出さない分、瞳いっぱいに感情が溶けている。驚けば冷たく、怯えれば暗く、兎の瞳の奥では不安な影が揺れている。それが俺の胸まで震わせるから気持ちが良い。 兎は不恰好で、不透明で光を反射しない壊れかけの硝子のようだ。もう、とっくに最初から壊れているか。 これ以上は壊れない。だからきっと、傍に置いていられる。 「血が痛む…抱かせろ」 兎の着物を掴んで、俺の下へ引き寄せた。 こいつが俺に懐いて隣にいるわけじゃないことくらい、わかっていた。寝場所ほしさに、少しだけ俺を見ないふりができるようになっただけだ。だから兎は行為の最中、今もずっと目を開けない。 着物を脱がせて、抱き締めながら兎の背中へ爪をたてる。 血の温度が上がる気がするほどだ。その熱をおさめるために兎を抱く。俺の下で揺らされながら、兎が苦しそうに顔をしかめるのも気に入ってる。 そうして俺の痛みが全て、兎へ流れていってしまえばいいのに。 朝から何も食う気がしなかった。 兎は俺を気にしながら、膳の上のものを朝と昼と半分ほどずつ食べた。 今は部屋の窓辺にもたれて、外を眺めている。俺が出かけなければ、こいつも一日部屋にいる気らしい。 襖が開かれた。兎は首だけ振り向かせる。 「晋助、拙者に何か」 万斎の姿を見ると、兎が慌てて立ち上がった。俺の方へ駆け寄って、姿を隠したいのか俺を盾代わりに背中の後ろへまわる。 万斎はそれを見て、気にした様子もなく俺の正面に腰を下ろした。 「中庭の池、見たか?」 「いいや。鯉がいたくらいの記憶しか…それが、何か」 「全滅だよ。お前が兎に、つまらねえちょっかい出したおかげでな」 笑いながら俺が言うと、万斎は首を傾げる。 「それは拙者のせいではなく、晋助が池に菓子など放ったせいでは」 「へえ。ただの洋菓子一つで、普通の鯉が死ぬのかい」 「まさか。毒を仕込んだ菓子に決まっておろう」 振り返ると、兎は谷底へ突き落とされそうな顔で俺を見た。 吸いかけのキセルを手に取る。 「今まで散々、お前の方がこいつをかばったり面倒みたりしてたじゃねえか。今更殺そうなんざ何か面白えことでもあったのか」 「いや何も。ただ解せぬと思った以上は、殺しておいて損は無いかと」 「何が解せない」 「わざわざ晋助のところへ戻ってきた理由。なあ、兎殿?」 万斎が身を乗り出して、俺の後ろの兎へ声をかけた。 「晋助から逃げ出せる絶好の機会をわざわざ逃がすのはおかしな話。晋助、何か心当たりは」 「さあな。俺に惚れたんじゃねえのか」 「ありえぬ話でござる」 「まだ、そこまでは気違いじゃねえか」 「締め上げれば吐くと思うのでござるが」 「喋れねえ奴に、どうやって口を割らせる」 俺が笑うと万斎も口の端を上げて笑いを作る。 「片腕残せば筆談くらいは可能でござる」 口調は淡々としていた。本気らしい。 別に兎が血を流す目に遭うのは構わない。でも俺はそれを始終鑑賞していられるほど暇じゃないし、兎は今、後ろから痛いほど俺の背中に爪をたてている。 「まあ、焦るなよ」 それなりに楽しめる兎を、万斎の心配一つを潰すために取り上げられるのもごめんだ。 「これでも最近、こいつは聞き分け良くてな。おい兎」 もう一度振り返って、兎を見る。 兎は俺に触れていた手を素早く自分の胸元へ引き戻す。後ずさって、俺からも距離をとろうとしたので腕を捕まえた。そのまま俺と万斎の間へ引きずり倒す。 「万斎がよ、お前の戻ってきた理由を知りてえんだと」 兎は倒れこんだ姿勢から、ゆっくりと顔を上げる。俺は理由なんざどうでもいい。飼い犬がつないでいた紐から離れて、数日後家に戻ってきた時、犬に向かって「どうして戻ってきた」なんて問う奴はいないだろう。それと同じだ。 俺を見て、兎は首を横に振る。怯えていた。俺の好きな顔だ。 気分が良くなったので、少しは安心させてやってもいいと思った。そうして頬を撫でようとした瞬間、兎は俺から顔を背けた。 その態度は気にいらない。 平手で兎の頬をはたくと、兎はまた畳の上に倒れこんだ。 兎はいつもこうだ。 懐いてきたと思えば、本心では俺を恐れる。俺の機嫌を損ねないように振舞うくせに、肝心のところで俺に従わない。 襟首を掴んで兎を引き寄せる。兎の頬が片方赤くなっていた。俺の手は痛くない。 「怯えるな。誰もお前を脅してねえだろ」 兎は俺の目を見つめたまま、瞬きを忘れている。 腕いっぱいの花束を抱えて、あの橋の上で俺を待っていたなんて思わない。身動きがとれないのは迷っている奴だけだ。それでも兎は俺を選んだ。俺と何を天秤にかけて兎が迷っていたのか、考えたところで俺には何も得るものがない。 兎は喉を小さく上下させて、唾を飲む。それから腕をゆっくりと上げて、俺の着物の袖に触れた。そのまま右側の袖の中に手を差し入れてきて、中を探った。もちろん、何も無い。刀は腰だし、小刀は持たない主義だ。 今度は左の袖の中に兎は手を差し入れる。左の袖の中には、財布代わりの巾着袋が入っている。 兎はそれを取り出して、俺に差し出す。 「……金でござったか」 兎は万斎の言葉に、ぴくりと肩を揺らして反応した。 「納得…というところでござるかな」 反論は敢えてしなかった。問い詰めるにしても相手が違う。 「晋助の相手をすれば金がもらえる。それなら確かに、逃げる道を選ばぬ理由には足りる。女も案外と金を好む生き物でござるからなあ」 兎はうつむいて唇を噛んでいた。 「とは言え、いくら晋助の払いが良かろうと…まあ、何か少し足りぬ気もするが」 万斎は言う。足りないもなにも、兎は嘘をついている。金が理由なら財布を持って逃げればよかったはずだ。俺の目の前で兎は簡単にばれる嘘をつく。 「どちらにせよ、晋助以外の人間から物などもらって食う輩でなければ十分でござる。兎殿、これからもその心意気で晋助の傍に」 無責任に言い捨てて、万斎は立ち上がると部屋を出て行った。 部屋の中は、俺と兎だけになる。 兎は俺の手をとって、巾着の紐を握らせた。俺があの日、橋の上で兎にそうしたのと同じように。 「お前に金を払った覚えは、一度もねえんだがな…」 渡された巾着を、部屋の壁に投げつける。思ったより大きな音で壁にぶつかって、兎は耳に手をあてて体を縮めた。巾着袋の中から、硬貨が何枚か外へ出てしまって、畳の上に散らばる。 「拾え」 苛立っていた。こんなくだらない理由を作ってまで隠そうとする、兎が俺のところへ戻ってきた本当の理由を思いつかない。知る必要もないことなのに、知らないことが気に入らない。 兎は部屋の隅に転がる硬貨を見ていた。何かを探しているように真剣な表情だ。右に左に瞳を動かしている。俺に拾えと言われたことも、俺の機嫌をとることも、忘れてしまっているようだ。 「いい。気が変わった」 というか、俺は認めた。兎に対して俺はこんな些細なことで腹を立てている。 兎が振り返ると同時に、押さえつけた。兎は声をあげなかったが、見開いた目が悲鳴をあげたも同然だ。兎は俺につかまって、簡単に自由を失う。 仰向けにして、馬乗りになった。兎の着物の帯を解こうとしたら、おかしな結び方をしているようでうまくほどけない。仕方ないので自分の帯をほどく。兎は体をこれ以上ないくらい強張らせて、俺を見上げていた。 瞳が震えて、濡れてはいたが涙は出ない。 今は、その目を見たくなかった。 兎に頭を少し上げさせて、目隠しをするように帯を巻く。兎は抵抗をしない。こめかみのところで少しきつめの結び目を作った。 兎のあの目が、黒い帯で二重三重に塞がれた。 気が済んだと思えた。やっと自分の気持ちに言葉がついてくる。口がきけなくてさえ、嘘をついたので俺は兎が許せないのだ。腹を蹴り上げたいほど、兎に腹がたっている。 「お前、遊郭行ったことあるか」 兎は、俺の方へ耳をむけた。首を振る。 「連れてってやるよ。金貰って相手するやり方がいいんだろう」 自分で言いながら、楽しい気分になってきた。そんなに苦しい罰でもないだろう。どうせ俺とやるときも目を開けない奴だ。相手が誰でもやり過ごせるに決まってる。 俺は結局、兎に甘いな。 抱かれて稼いだ金を、兎がどんな顔で受け取るのか楽しみだ。 back next |