兎の標本 12 高杉晋助から逃げる絶好のチャンスだと、最初は思った。 でも、橋から離れて街の中を歩いて気づがついた。助けを求めようにも声が出ない。頼れる人もいないし、頭からつま先までずぶ濡れの私を、通る人はみな避ける。 渡されていた巾着袋は、着物のようにとても上等で滑らかな布でできていた。片手で十分に持てる小ささだけれど、それなりの重さがあった。 働いている様子もないのに、どこから稼いできたお金だろう。閉店しているお店の軒下に入って、巾着の紐をほどいてみる。巾着の中に手を入れて、指先で掴める分だけ取り出した。 それを見た瞬間に自分がどんな気持ちだったのか、あまり思い出せない。 驚きよりも恐れたのか。すがっていた望みから突き放されたのかもしれない。 『ウサギの足』だった。毛並みも色も、私がお守りにしていたものと、そっくりだ。 見間違いかと何度も思った。 雨に濡れた指先でつまみ上げる。目の高さにもってくる。 ずっと財布の中にしまっていて、あの神社でお賽銭箱に入れた。 高杉晋助が、それを持っていた。 屋敷に戻ると、高杉晋助は浴室へ向かった。 自分だけ先に浴槽に浸かる。私が両手に抱えていた花を浴槽の前に並べろと言われた。それを終えてから、私は最低限の支度を済ませて浴槽に入る。 高杉晋助は、しばらくしてから浴槽から体を引き上げた。私が床に並べた花達を踏む。一番綺麗で高かった極楽鳥花を最後に踏んで、高杉晋助は浴室を出て行った。 それを見送りながら思う。 もし、明日にでも声が出るようになったらどうしようか。 ここから逃げ出すことさえ成功すれば、誰かに助けを求めることができる。その代わり、高杉晋助に『ウサギの足』の理由はきけなくなる。 でも尋ねてしまえば、私は口のきけない兎としての価値を失うので、逃げだす前に殺される。 浴槽の前に並ぶ、潰れた花を見ながら考えても答えは出ない。 私は花を踏まないよう遠回りをして、浴室を出た。 夜になっても、小雨がやまずに降っていた。 高杉晋助は夕飯を食べなかった。頭痛がすると言ってお酒も飲まない。 布団を敷かせて横になる。私が傍へ行くと、面倒くさそうに横目で睨みながら場所を空けてくれた。 自分はしっかり傘をさしていたくせに風邪でもひいたんだろうか。 傍にいる人間が具合が悪そうと思えば気にはなる。 眠っていたのに目が覚めてしまった。高杉晋助が私の隣で上半身だけ起こしたせいだ。薄目を開けて見ると、額に手をあてている。 夕飯の時に言っていた頭痛が、まだ痛むのだろうか。少し心配になる。 翌日は晴れた。 高杉晋助は、別に具合は悪くなさそうだった。 昼過ぎからお客さんが来ていたので、私は部屋の外へ出て廊下に座っている。 高杉晋助の部屋は建物の4階にあった。廊下の壁は上半分ほどが窓ガラスになっていて、外の青い空がよく見える。本当は屋敷の中も色々と歩いてまわりたい。でも高杉晋助に不審に思われるのを避けたかったので、部屋を出された時もここでじっとしていることにしていた。 廊下の先から誰か来る。足音に耳を澄ませていると、万斎さんが姿を見せた。 「晋助は、まだ中に?」 頷く。 「兎殿は『待て』でござるか」 高杉晋助から、そう言われたわけではない。私が勝手に、ここで待っているだけなので少し首を捻って笑ってみせた。万斎さんが私の目の前にかがむ。延びてきた手に反射的に目をつむった。 「偉い偉い。おりこうさんな兎殿…偉いでござる」 頭のてっぺんを柔かく撫でられる。高杉晋助は私を褒めてくれたりはしない。万斎さんの顔を見上げると、口元に笑みを浮かべてくれていた。 「どうせ晋助は、褒美などくれぬというのに」 万斎さんはポケットの中から取り出したものを私の手のひらに乗せる。ビニルに個包されたマドレーヌだった。 「お通殿からもらったのだが、拙者は甘いものが苦手ゆえ。兎殿は好きでござろう」 頷いてしまう。ここへ来てから甘いお菓子は一口も食べていない。食膳にはまず出てこないし、食べたいとも伝えられなかった。ビニル袋を隔てたマドレーヌの狐色から甘味さえ感じられる。とても美味しそうだった。 「さあ、どうぞ」 でも、食べたいと思う気持ちに私自身で制止がかかる。なぜだか悪いことをしているように感じている。相手が万斎さんだからか?いや違う。 高杉晋助以外の人間から食べ物をもらうこと自体が、後ろめたいのだ。 どうして裏切りをおかしているような気持ちになるんだろう。 万斎さんは黙って動かない私に首をかしげる。手のひらにのせていたマドレーヌを個包から出した。 「甘い香りでござるな。お通殿の一押しでござるぞ」 高杉晋助は、背中の障子の先で何か真剣に話をしているはずだ。それなのに私は食べていいのだろうか。いいや気にする必要なんてない。食べていいに決まってる。 頭では思うのに体が固まって、どうしても口元へ運べない。食べたいのに。砂糖とバターと卵と牛乳。しっとり胸に溶けていく甘い歯触り。味が舌の上で勝手に蘇って、私は唾を飲み込んだ。 万斎さんはマドレーヌを指先で持ち上げる。 「食べさせてしんぜよう。はい、あーん」 唇にマドレーヌが触れる。 その時、高杉晋助が果物を食べさせてくれた晩を思い出した。 果物も高杉晋助の皮膚も冷たかった。涼しい香りのグレープフルーツは、どこまでもみずみずしくて単調な味だった。高杉晋助が全ての果物を一つずつ、私の口元へ運んでくれた。今では毎日私が箸で食事を食べさせてあげているけれど、あの晩だけは特別だった。 駄目だ、絶対に食べれない。 「おい邪魔だ」 真後ろで障子が開いて、高杉晋助が立っていた。 「では高杉殿。また十日後に」 「ああ。楽しみにしてるぜ」 高杉晋助が相手をしていたお客さんは、私と万斎さんを避けるように廊下へ出て帰って行った。 高杉晋助はキセルを片手に煙を吐く。そうして万斎さんの手からマドレーヌを握りつぶすように取り上げた。廊下の窓をガラリと開ける。そこから外へ放ってしまった。 私は思わず立ち上がって、窓に寄る。 マドレーヌは小さな小さな点になって、中庭の池へ落ちていった。 「残念でござったなあ、兎殿」 立ち上がりながら万斎さんが言った。 数秒、私は考えた。その後に首を振って、高杉晋助の隣に立った。高杉晋助は窓の外を見つめながら、キセルを吸っているだけで何も言わない。 マドレーヌを食べれなかったことを残念とは思っていない。食べずに済んで良かったと安心している。 それはただ単に、高杉晋助の怒りを買わずに済んだから。きっとそれが理由の全てだ。 でも本当は自分でも不思議だった。嬉しいような、水の中に戻された魚が跳ねるように心の内で私は静かに喜んでいる。 「おお、ますます良い兎殿。今度こそ本当のご褒美に、これを差し上げよう」 万斎さんは胸ポケットから、一枚のチケットを出した。 「これもお通殿からのもらいものでござるがな。先ほどの菓子を売る店で使える、特別券でござる。さあ、どうぞ」 私の目の前に券が差し出される。 何とはなしに、私は隣の高杉晋助を見上げていた。高杉晋助は私を見ない。キセルを持っていない方の袖を引いた。無視をされている。もう一度袖を引いて、高杉晋助を覗き込む。 「欲しいのか」 高杉晋助は外を見たままの視線で言った。高杉晋助の瞳を見つめて、私は頷く。キセルを深く吸って、やっとこっちを見てくれたと思ったら煙を顔に向かって吹きかけられた。 「…勝手にしろ」 ああ、許してもらえた。煙が目と喉に入ったせいで、私は咳き込みながら万斎さんの手から券を受け取る。 高杉晋助を見上げた。 「お前、ねだるのだけは巧くなったな」 そういう高杉晋助は、私に少しだけ優しくなった気がする。 翌日の朝、高杉晋助に連れられて中庭を散歩した。池の鯉が何匹も死んで、水面に白い腹をさらして浮かんでいた。それを高杉晋助は、面白そうにしばらくの間眺めていた。 back next |