兎の標本
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最近の兎は、なんだか妙だ。あれだけ俺を警戒していたはずなのに、食事の時も寝るときも俺の傍から離れない。俺が部屋を出ると、ついてくるようになったのだ。
他の人間との話があって、席を外せといえば廊下に座って待っている。
まるで紐でもつけられたみたいに、いつも兎が傍にいる。逃げ出す隙でも探しているように、俺を見つめて離れない。


朝から雨が降っていて、昼を過ぎても空が暗かった。
キセルを置いて立ち上がると、兎が俺を見上げた。

「…外を歩いてくるだけだ。お前には関係ねえよ」

兎は頷いて立ち上がる。俺が部屋を出るとそのままついてきた。廊下を歩いて階段を下って、玄関へ来た。雨なので少し歯の高めの下駄を出させて履く。俺が傘を選んでいる間、兎は玄関先へ立ったままでいた。

「高杉様。こちらの方のお履物と傘は…」

屋敷の下人が兎の方を気にして言う。兎も俺を窺っている様子だ。

「さあな」
「そんな高杉様…。ご一緒なさるのなら準備いたしますが」

馬鹿か、こいつ。

「女の手を引いて、ちんたら散歩する趣味はねえよ」

傘を開いて玄関の戸を開ける。湿った空気が頬を撫でた。






兎がついてきたことは、気配でわかっていた。だから放っておいた。
屋敷から続く坂を下る間にも、どんどん雨脚は強まって、ほとんど雨の音しか聞こえない。そのうち兎のことは気にならなくなった。

夜の闇と雲が覆った昼間の中途半端な暗さ、どちらも好きだ。今日みたいに雨が降っていると、商店の並ぶ道を通っていても人の声が騒々しくないので、なお良い。
こんな日が永遠に続いて、世界の全てが喪に服してしまえばいいのに。

何も買わず、誰とも話さずにただ歩く。
川べりへ来た。
赤い橋を渡る。真ん中で止まって、下を流れる川を見た。さすがに増水して流れも急になっている。勢いを増すと濁って汚くなるのは人間も水も同じだ。
隣に誰かが立った。上半身は俺がさしている傘に隠れている。 兎だ。黙って俺の傍をついてくるのは、今のところ兎だけだ。

傘を少し上げて、兎を見る。
兎は、から爪先まで、容赦なく濡れていた。傘をさしていない。
俺のすぐ隣で、兎は橋の手すりに片手を置いて、同じように川を見ていた。瞬きをすると雫が頬を伝って、顎の先から落ちていく。着物はぴったりと体にはりついて、裾には泥が跳ねていた。履物もはいていない。裸足のまま俺のあとをついてきたようだ。足は泥と砂粒で汚れていた。

「…雨が好きか」

兎は首を横に振る。

俺は袖に入れていた袋を出した。中には金が入っている。雨に濡れた手のひらに乗せると、兎は俺を見上げた。

「花を買ってこい」

兎は首を傾げて、その場から動かない。
おかしな奴だ。逃げ出すには最高の機会だろう。花を買うには有り余るほどの金が、袋の中には入ってる。まさか兎が本心から俺に懐いてると信じるほど、俺はめでたい人間じゃない。

「何でもいい。捨てるのが惜しくなるほど、稀少なもんならよ」

兎は、まだ少し納得していない表情だ。
流れる川の音がうるさい。目の前で雨に濡れていく兎の頬は、俺に過去を思い出させる。
二度と聴けない声と、まだ一度も聴いたことのない声は同じかもしれないし、全く違うかもしれない。あの時、いっそ光を失うほど絶望したかった。

「今日は大事な人間の命日でな」

つまらないことを言っている。もう二度と会わない兎だから、どうでもいいと思っているのかもしれない。

「…まあ、花を供えたところで何も報われやしねえ。だが、それを…報われないってことを確かめるために花を飾ってやりてえのさ」

兎も逃げたいのなら逃がしてやる。

「くだらねえよなあ。くだらねえのに、生きてる奴は馬鹿だから気付けない」

兎の頬に手を伸ばして撫でる。冷たかった。死んだあの人の頬と同じだ。不意に手が震えそうになる

「行け」

兎は一度頷いて、水溜りを避けずに歩いていった。






屋敷に戻ったが体が冷えていた。そのせいか少し頭痛もする。風呂に入ろうと浴室へ向かう途中で、屋敷の主人に呼び止められた。万斎が、玄関で俺を待っているらしい。

「どうせ急ぎじゃねえんだろ。あとにしろ」
「はあ。しかし…」
「頭が痛くてな。面倒なツラは見たくねえ」
「わかりました。ただ…万斎様が、少し不機嫌でいらしたようですので」
「…へえ」

面白そうだったので、行くことにした。



玄関へ行くと、万斎が土間に立ったまま俺を待っていた。
俺を見て、万斎は溜息をつく。

「晋助…おぬしはどうして、いつもいつも」
「なんだよ」
「捨てるなら捨てる、不要なら不要と拙者に一言あってもよかろう」

万斎は、持っていた傘で土間を軽く突いた。

「兎殿は、斬ってくればよいのか」
「…見かけたのか」
「見かけたもなにも、あんなところに、あんな風情で立っていれば誰でも目に付く」
「…どこにいた」

万斎は首をかしげた。

「米穀屋の先にある、茜橋。まだ今も、いるはずでござる」

俺が兎に、花を買って来いと言い渡したところだ。兎はその橋の真ん中で、両手いっぱいに花を抱えて立っていたらしい。傘も差さずに素足のままで、どんな表情だったかまでは考えたくもない。

「お通殿との打ち合わせの帰り道に、丁度通りかかったゆえ…奇異なことをする女と思ったら、晋助の兎殿。拙者に気付いて逃げ出すならともかく、橋から動かぬ。帰るようさんざん勧めたでござるが…まあ、強情なのも飼い主譲り」

触れた頬の冷たさが、指先に蘇る気がした。

「その場で斬っても良かったでござるが、晋助に一応確認をとろうと」
「へえ、何の確認だ」
「兎殿は、もう不要でござるか」
「不要なら、どうする」
「拙者が拾おう」
「駄目だと言ったら?」
「斬る。……兎殿を、晋助が捨ててきたのなら」

橋の上で、兎は今も花を抱えて立っている。

「…忘れてきちまっただけさ。今日は、頭が痛くてな」





結局、兎は万斎に連れられて戻ってきた。
玄関から上がろうとしない。土間に立ち尽くして、腕の中の花束に視線を落としている。
水死体をそのまま引き上げてきたかと思うくらいずぶ濡れだった。俺を見ると、気まずそうに目を逸らした。どの花も雨に濡れてしまって、兎の足元は軽い水溜まりになっていく。

「晋助、兎殿を早く風呂に…」
「いい。構うな」

万斎は肩をすくめると、俺の横を通って部屋へ戻っていった。

兎が一歩進み出て、俺に向かって手を伸ばした。金を入れていた、あの袋を渡される。

「花以外は、何も買ってねえのか」

兎は頷いた。俺の目をみつめて、ゆっくりと瞬きだけを繰り返す。今ほど、こいつの声を聴きたいと思ったことはない。
濡れた兎の首元に、手を回して引き寄せた。兎は嫌がりも拒みもせずに、大人しく俺に口付けを許した。
冷え切った兎の唇は、雨を含んでいて俺の唇まで濡らしてしまう。

「ちょうど今から風呂に入るところだ。……いいところに帰ってきたな」


抱き締めて、兎の腕の中ではいくつもの花が潰れていく。





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