兎の標本
10





朝食の後、昼から高杉晋助は出かけていった。
夕方を過ぎてもも戻らなかった。でも、夜に食事が部屋へ運ばれてきた。お膳を手に部屋の襖を開けたのは、きつい表情をした、綺麗な女の人だ。

「晋助様が運んどけってさ。……残したら、承知しないっすよ」

この人は、高杉晋助のことが好きらしい。



夕飯を、自分の手で箸を使って食べる。
当たり前のことなのに新鮮だ。
食べながら考えていた。このままでは良くない。
ノミの跳躍のことを思い出す。
ノミは、普通で1メートル近くの高さを飛べる生き物だ。それを、瓶の中で飼う。しばらく経つと、ノミは瓶の外へ出しても、飼われていた瓶の高さ以上には飛べなくなってしまう。
私の声も同じ状態になってる。でも、まだ間に合うと思う。私はノミでも兎でもない。 声が出せなくなっているのは、きっとしばらく声を出さない生活をしていたせい。それに心因的なショックも大きいはずだ。
高杉晋助の傍で生活していて、今まで強いられたことのない行為もさせられている。慣れ始めたように思っていたけれど、きっと苦痛を感じる心が麻痺していただけなんだ。
高杉晋助のところから出て行く気持ちが固まった。

膳の上の食事を噛んで飲み込むほどに、意識が目覚めていくような気がした。
明日からは出て行くための準備を始めよう。




高杉晋助は明け方近くに帰ってきて、起きたのは昼過ぎだった。時計を持っていないと不便だ。時間が早く流れているのか、ゆっくりなのかさえ自分でわからない。
高杉晋助は起きぬけからしばらくの間キセルを吸っていて、その後部屋に呼んだ万斎さんと話をしていた。それからやっと食事になった。

膳は、やっぱり高杉晋助の前に一人分しか運ばれてこない。
私は高杉晋助の前へ行った。膳を挟んで向かい合って、私は正座をする。高杉晋助がチラリと私を見た。

「ふん…ほしけりゃ、ねだってみろよ」

できないだろう、と言いたげだ。昨日までの私なら確かにためらった。でも、もう出て行くことを決めて、そのためにやるべきことが今は最優先だ。まずは体力をつけておかないといけない。空腹では頭も体も鈍ってしまう。
食事をもらうために、高杉晋助に寄り添うふりなんていくらでも。

腕を伸ばして、正面に座る高杉晋助の手をとった。手のひらを上に向けて私の方へ引き寄せる。高杉晋助は何も言わない。
冷たい手だ。手の甲は滑るように白いのに、手のひらは皮膚が硬くて傷跡もいくつかあった。この手のひらが私の頬を打ったのだ。節の目立たない、長くて綺麗な指からは乱暴に髪を掴まれたこともある。

「上手くねだれたらご喝采もんだが…お前にゃ無理か」

それは、あなたに優しくしてもらうのが無理なのと同じ。

「ああ。口寂しいのか、お前」

違う。でもそう思い込むのは高杉晋助の自由だ。
背中の向こうで鳥の声が聴こえた。鳥の名前はわからない。窓の外できっと空高くを飛びながら鳴いている。私の目の前には高杉晋助しかいない。

「指の一本ならくれてやるぜ」

昼の日差しが部屋に差し込んで、私の背中を照らした。私の影が高杉晋助を覆っているので、高杉晋助に光はあたらない。
高杉晋助はカラスに似ていると思った。広げた翼は暗闇にもう一段の黒を重ねたように、どこまでも落ちていけそうに深い。

「たまには食われてやるのも、一興だ」

私だって、食われてばかりでいてやるものか。
仮面をつけたようにいつも余裕だけが浮かぶ顔を崩してやる。 いつも私だけが驚いたり怖がったり、動揺していることが急に悔しく思えた。
高杉晋助の指先を、自分の口元へ持ってくる。一番最初に唇に触れた中指を、そのまま口に含むと爪の先が舌に触れた。刀を喉先にあてられるよりは、ずっと優しい感触だった。
もう少し、爪の半分くらいが口に入ったところで思い切り歯を立てた。
噛み切れるとは思っていない。でも、せめて痛いと思わせてやりたかった。だから二度、三度と顎に力をこめて高杉晋助の指先を噛む。
さっきの言葉どおり、指の一本を私にくれるのなら何をしても私の自由だ。

また鳥の声が聴こえた。高杉晋助の指を口から離した。
随分強く噛んだけれど血さえ出ていない。でも歯型はついていた。

「…面白えな」

高杉晋助は笑っていた。私が離した指を自分の方へ戻して、目の高さへ持ってきて眺めている。

「兎に噛まれる…か」

高杉晋助が立ち上がる。部屋の右手に作りつけられていた床の間へ行くと、飾ってあった刀を取った。流すような動作で刀を抜く。
殺されない、大丈夫。まだ斬られるほどではないはず。
自分に言い聞かせても、背中から冷や汗が噴き出していた。

高杉晋助は戻ってくると、私の目の前にしゃがむ。刀の先に指をあてた。私の噛み跡がついた指だ。その指の腹で、刃を撫でるように縦方向に滑らせた。

「あ!…ってな、顔してるぜ。怖いのかい」

指先から血を垂らして、高杉晋助は笑っている。

「ほら、やるよ」

ふつふつと血を流す指先で、高杉晋助が私の唇をなぞった。そのまま唇を割られて、口の中に血の味が広がっていく。
苦くも甘くも無い、高杉晋助の味だ。



その後で食事にうつった。
高杉晋助は手を使うのが不自由になったと言いだして、私に箸を使わせた。高杉晋助の指示する皿のものを箸で一口分とって、高杉晋助の口元へ運ぶ。とても楽な作業だった。
高杉晋助はゆっくりと噛んで、飲み下してもすぐには次の一口を求めない。私は合間に自分の分を箸で取って食べる。高杉晋助はそれについて何も言わなかった。

夕食も同じようにして食べた。高杉晋助は当たり前の態度で私に食べ物を口へ運ばせる。明日以降も、これが定例になるだろう。
予想したよりずっと簡単に食事をとる手段が整った。運が向いているのかもしれない。嬉しかった。




真夜中になった。

高杉晋助は、またいつものように一人だけで布団に横たわる。
私は部屋の隅から、足音をたてないようにそっと高杉晋助に近寄った。
高杉晋助は仰向けでは眠らない。いつも、右か左か、どちらかに体をむけて軽く背を丸めた姿勢だ。今は私のいる方を向いていた。
布団の傍へしゃがみこむ。
月明かりの中、高杉晋助は目を瞑っている。眠っている時が一番人間らしい顔に見えた。 敷布団の上へ投げ出すように置かれた、高杉晋助の指先に触れてみる。

「……寝首をかく以外、用はねえだろ」

高杉晋助が目を閉じたまま言った。起きていたようだ。
用はある、と心の中で返事をした。
もう畳の上で寝起きするのもやめたい。気持ちよく布団の上で眠らなければ、体力の回復と温存ができない。
高杉晋助のところから逃げ出すために、しばらくは高杉晋助の傍であろうと、人並みに布団の上で眠ることが必要だ。

刀でつけたあの切り傷が残る、高杉晋助の中指に自分の指を絡めた。薄く、高杉晋助が目を開ける。

「なんだ…まだ口寂しいか」

頷くと、高杉晋助は息を吐く。

「勝手にしろ」

言うと同時に目を閉じてしまった。
私は息をとめて、敷布団の上に手をつく。高杉晋助は起きない。隣に体を横たえる。久しぶりに体を寝かせた布団の優しい弾力に、思わず溜息が出てしまった。ああ気持ちい。うつむけになって、顔だけ横へ向けると頬にシーツが触れる。眠る場所が柔らかいのは、単純に幸せなことだ。

布団の真ん中で高杉晋助が横になっているので、空いている隙間は窮屈だ。少し横へずれてくれればいいのにと思う。どうせ本当はまだ起きている。面倒くさいから動かないのか、ただ意地が悪いのか。布団からはみ出てしまわないように、高杉晋助の方へ体を寄せる。向かい合わせなので、目の前には高杉晋助の手があった。
指先に残る切り傷は、もうとっくに血が止まっている。

舐めて溶かせば、また血が流れるだろうか。

指先を手にとって、口に入れる。舐めても何も変わらない。高杉晋助は眠っているような顔で目を閉じている。
窓からの入り込む風が少し肌寒かったので、高杉晋助の体にいっそう自分の身を寄せた。
高杉晋助なのに温かい肌。まだここにいてもいいかもしれない。そう思えるほど頬を寄せても温かく、馴染むように優しい。
絶望を愛しいと思うようなものだろう。

逃げ出す決意の裏には、捕まった時を恐れる気持ちが確かにある。でも、それが生む幻想に惑わされたらいけない。
高杉晋助の傍にいて、私に良いことなんてあるわけがないのだ。




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