兎の標本
09





高杉晋助が果物を食べろと言ってきたのは、本当に驚いた。
それまでは万斎さんが持ってきてくれる果物ばかり食べていた。万斎さん以外、誰も私に食べ物をくれなかったし、発熱のだるさが体に残っていて食欲もあまりなかった。積極的には求めなかったせいかもしれない。

高杉晋助は、部屋に入ってきた時点で機嫌があまり良くなかった。手を使わずに、動物のように這って食べろといわれた。
なんとか、高杉晋助の気持ちの風向きを変えてもらわなければと思った。四つん這いで物を食べるなんて絶対に嫌だ。
だから万斎さんに言われていたとおり、甘えるようなふりをした。
『晋助にすがらず、媚びず、甘えるふりに近い素振りで、触れればいい』
枕元で万斎さんが囁いた助言は、抽象的すぎる。だから具体的にどうしたらいいのか、もっとシンプルに考えた。
すがりたくとも媚びたくとも、私は高杉晋助に対して言葉を使えない。本心では甘えたいとも思ってない。それなら単純に甘えるふりをすれば、万斎さんのいう「甘えるふりに近い素振り」にならないだろうか。

正解になりえたらしい。
高杉晋助は機嫌を持ち直して、果物を食べさせてくれた。
その後に続く行為がどうであれ、切り殺される日がまた少し遠のいた。


高杉晋助は今、私に背中をさらして眠ってしまっている。寝息は聞こえない。でも、はだけた着物からのぞく肩が、静かにゆっくりと上下している。
布団をかけてあげようか、と思ったけれど、そんな義理はない。
高杉晋助は屋敷の人に布団を敷かせて、自分だけさっさと横になってしまったのだ。私は、部屋の隅でいつものようにうずくまったままでいる。

高杉晋助が、ゆっくりと体を反転させる。起きてしまうのか、と身構えたら、そうではなかった。ただの寝返りだったので、ホッとした。
やっぱり肩が寒そうに見えた。着物くらい、きちんと着てから寝ればいいのに。
傍で見ている人がどう思うかなんて考えもしてないんだろう。

高杉晋助と、万斎さんは私のことを兎と呼ぶ。私が何も話さないせいだろう。兎は声帯がないので、鳴き声を持たない動物だ。最初と次の晩は本当に声は出せなかった。でも今は違う。声を出さないほうがいいとわかっているので、出さないだけだ。高杉晋助に伝えたいと思うことも何も無い。
いつまで兎のふりを続ければいいんだろう。そうして、続けていられるんだろう。




翌朝、体が軽くなって気分まで良かった。風邪は、もう完全に良くなってしまったらしい。畳の上で寝起きするのにも慣れたせいかもしれない。

朝食が運ばれてきて、もちろん高杉晋助の分だけだ。
今までなら別に気にせず寝ていられたのに、今日は駄目だった。部屋の隅に座ってもお膳に鼻が向いてしまう。空腹感を刺激されてたまらない。

高杉晋助が私の様子に気付いたのか、一瞬ちらりと視線を寄越す。でも、すぐに食事に移ってしまった。お碗をとって口をつける。
お味噌汁なのかな、お吸い物なのかな。具は何が入ってるんだろう…温かいのかな。

お碗を置いて、高杉晋助はお茶碗をとる。高杉晋助はお箸を綺麗に持つ。漬物を口に運んで噛む。ちっとも美味しそうな表情をしていないのに、むしろ嫌々食べているような風なのに、それが全然気にならない。気になれないほどお腹が減ってきている。膳の上のご飯を一口でいいから食べたかった。

「…食えたもんじゃねえな」

突然、高杉晋助が箸を置いた。立ち上がって窓の方へ行ってしまう。
私が食欲を込めて見つめすぎたせいで、機嫌を損ねてしまったか。私は高杉晋助から慌てて目を逸らす。どうか高杉晋助の、ただの気まぐれでありますように。心の中で何度も祈る。
窓枠の下には3段造りの道具箱のような箱が置かれていた。上段部分は灰皿になっていて、そこ置かれていたキセルを高杉晋助が手に取る。しぐさが女の人のように滑らかに見えるのに、キセルに手を伸ばす高杉晋助の本性は真逆だ。こんなに気性の荒い人はいない。
吸い口を口元に持って行きながら高杉晋助が振り返った。
ゆっくりとキセルを吸う。私を見た。

「下げて来い」

高杉晋助は、煙を吐く。

「朝のうちは、何食っても味がしねえ」

吐き捨てるような言い方だ。嫌味ではなく、本心で言ってる。
本当に不平等で、救われない。だって私はこんなにお腹が空いてる。

立ち上がって、私はお膳の傍へ行った。まだご飯からは湯気が昇っていた。炊きたてなのだ。お吸い物の中は、具もほとんど残っていた。おかずはどれも一口も食べられていない。
食事を目の前にして、一気に空腹感が膨れ上がって、手が震えた。

お膳を持ち上げて、高杉晋助を振り返る。
高杉晋助は私の方を見ていなかった。キセルを吸って、煙を吐いて、窓の外を眺めているだけだ。

機嫌は今、いいのだろうか。悪いのだろうか。

祈る気持ちで、高杉晋助の前に行く。膳を高杉晋助の足元に置いた。

「……下げろと言ったろう」

高杉晋助は視線を外に投げたまま、横顔で言う。私は膝をついた。膳の上に置かれた箸の、真ん中を両手で持って、差し出した。
食べる許可がほしかったのだ。そうすれば堂々と空腹を満たせる。
高杉晋助に媚びてはいけない。でも甘える素振りは有効だ。

高杉晋助はしばらく、無表情に私を見下ろしていた。

「それも、万斎の入れ知恵か」

否定はできない。一度頷いて、でもその後首を振った。別に何から何まで万斎さんの言うとおりにしているわけじゃない。万斎さんの助言なんて行動の大まかな指標にしかならないからだ。
もう一度、今度ははっきりと首を振って、高杉晋助を見つめた。
高杉晋助は溜息をついて、それから私の差し出した箸を受け取ってくれた。




膳を挟んで私達は向かい合う。高杉晋助は片膝を立てて座っていた。私は正座だ。
高杉晋助の顔は雪原のように白い。
間近にそれを見つめながら、膳の上の食べ物を、箸の先から口元へ運んでもらう。高杉晋助は、私の食べるペースに合わせてくれていた。
なんだか今日は、随分機嫌がいいみたいだ。


「汁物くらいは、自分で飲め」

言いながら、お碗を目の前に持ってこられた。

手を使うなと言ったり、面倒くさくなると自分で飲めと言ったり、やっぱり高杉晋助は自分勝手だな…と、心で思う。
渡されたお碗が、そう熱くなかったので、息を吹きかけて冷ますことをしなかった。お碗の淵に口をつけて、ほんの少し傾ける。

熱い!

声に出てしまったと思った。
でも高杉晋助は、相変わらずの無表情でいる。
良かった…なんとかギリギリで、言葉が音声になる直前、押しとどめられたらしい。
高杉晋助は、お膳の上にあと少しだけ残っている食べ物を見て、少し眉をしかめている。私に食べさせてやるのを、億劫に感じ始めているんだろう。
少しの笑いを堪える。そうして安心したはずなのに、ふと心がざわめいた。

本当にさっきのは、『声に出さずに済んだ』なのか。
条件反射はどんなに注意していても防げない。防げないはずだったのに、防げてしまった声。それは、もう失われているものでは?

「おい、兎」

お碗が手から滑り落ちた。太股から膝にかけて、熱いと思った。でも、それだけで声は出ない。出せないのだ。
高杉晋助を見た。呼んでみようとした。舌と唇は、はっきりと高杉晋助の名を呼べるのに、色を奪われた虹のように言葉が輪郭を持てない。霧が散っていくのと同じ、ただ細くて不規則な、短い息が喉から出て行くだけだった。

「…脈略もなしに、いきなり泣くか」

高杉晋助が呆れたように言う。

頬に手をあてると、確かに涙が流れていた。あとからあとから流れてくる。太股が針をあてられているようにヒリヒリと痛い。

私が最後に、話した言葉はなんだったろうか。思い出せない。
そんなに昔のことではないはずなのに、ずっと遠い。
今、私の近くにあるのは高杉晋助だけだ。
それが言葉を失って得た世界と釣り合うとは思えなかった。


back     next





inserted by FC2 system