兎の標本
08





部屋の中に灯りを入れる。
俺はいつものように障子の窓枠に腰掛けた。
灯りの気配を感じたらしい。部屋の隅で、体を丸めて横たわっていた兎がゆっくり起き上がろうとした。畳に片手をついて、上半身を起こす。自分の枕元に置かれた皿を見た後、視線をめぐらせてやっと俺に気付いた。

「万斎が置いていったぜ」

兎が一瞬、息をのんだのがわかった。
そうして硬直した姿勢のまま俺から視線を外さない。皿のものを食おうする様子はなかった。
お互いに黙ったまま時間が過ぎていく。
俺は皿を見つめて、考えていた。
皿に盛られた果物。何種類か、食べやすい大きさに切られた状態だ。どうしてだろう。万斎が気を回したんだろうか。それとも俺が見ていないところで、兎がそうしてほしいとねだったのか。話せもしないのにどうやって。わからない。
そもそもいつから、万斎はああやって、兎へ食い物を与えていたんだろう。どうして。一体何のつもりで。わかるわけない。

「…どうでもいいか」

何もかも、細かい事情なんてどうでもいい。
腰掛けていた窓枠から立ち上がって、兎の傍へ寄ることにした。


部屋の灯りは入り口の行燈一ヶ所だけで、一番奥の隅、兎の傍へ一歩近づくごとに暗がりになる。
兎は俺との距離が縮まるのを恐れてか、部屋の隅ギリギリに、しがみつくようにして壁際へ体を寄せていた。
それでも、首だけ振り向かせて俺を見つめることはやめない。

「そう怯えるもんじゃねえよ。別に取って食ったりは…」

するかもしれない。兎に向かって首をかしげて笑ってみせると、兎は俺を睨み返してきた。胸元で、両手を硬く握り締めながら俺をきつく見つめてくる。
それで、撫でてみようと思った。
あんまりにも俺を見つめてくる様子に救いがなくて、哀れになったからだ。
哀れでみじめで、見るに耐えない。だが間違いなく、俺の兎。俺を怖がりはしても、絶対に逃げていかない。ただ怯えながら傍にいる。
頬へ手を伸ばす。哀れな奴だから、撫でてやってもいい。
俺の指先が兎の頬へ触れるかと思った瞬間、兎は俺から顔を背けた。
万斎の言葉が、ストンと胸へ落ちてきた。

『肝心の飼い主が、しつけの一つもできぬ』
『晋助では飼い主に役不足』

万斎の言い分にも一理あるらしい。こいつにはしつけが必要だ。




「食え。ただし、手は使うな」

俺と兎の間の、皿を顎で示した。

「兎のくせに…お前は、相変わらず身の程知らずだからな」

窓の外から聞こえる雨に風の音が混じりだした。

「食い方から教えてやるよ。ほら、食え。手は使うな」

兎は、一度皿へ視線を落として、またすぐに俺の目をのぞきこんだ。
言葉が聞こえてきそうな見つめ方をしやがる。それを一身に浴びるのは悪くない。だが、万斎にも、こうやって同じように視線を注いだのかと思うと、じとりと貼りつくような、暗い熱が胸に生まれる。
俺と万斎の違いは何だ。兎を最初に見つけたのは俺だろう。
だが、もう一度拾ってきたのは万斎。
それでもこうやって、今現在飼ってるのは俺だ。

「お前は兎…そうだよなあ」

どうして俺に懐かない。俺は女なんか囲っちゃいねえ。兎を一匹飼ってるだけだ。

「さあ、食えよ。手なんか使って物を食うわけねえよな」

お前は兎だ。そうして俺が飼い主だ。

「間違った食い方を覚えたりしねえよう、俺が見てやる…」

万斎が持ってきた果物を、兎は万斎の前では食べなかった。だからこそ、俺の目の前で四つん這いになって果物を食う、こいつの姿が見たい。
兎は眉をしかめて、嫌悪をにじませた表情で俺を睨みつけてくる。
でも唇は小さく震えて泣き出しそうだ。

「…ほら、食ってみろ。な?」

哀れな気もする。でもやっぱり、見れば見るほど愉快だ。




淡い黄緑色をした果物が、水分をたっぷり含んで皿の上にある。兎は一度視線を皿に落として、唾を飲み込んだ。食欲を、目の前のものを食いたいと思う気持ちを、押さえ込もうとしている動作だ。
思わず笑みがこぼれて、口元が歪むのがわかった。
多分万斎がこうして持ってくる以外は、何も口に入れてないらしい。

果物の一つを、人差し指と親指でつまみあげた。兎の目の前で俺は口に入れた。
兎が目だけを動かして、果物を視線で追う。

「…うまい」

思ったよりも果汁が多い。口の端から雫が伝い落ちるのがわかった。
兎は俺の口元を凝視して、もう一度喉を鳴らして唾を飲み込んだ。胸元で握り締めてた指の、節の骨が皮膚から白く浮き上がっていた。

「食いてえんだろ。…食えよ」

見つめる見つめる、瞬きもしないで俺の唇を見つめてくる。嫌な兎だ。
まるで瞳の口付けでも受けているように、おかしな気になっていく。
兎を困らせてやりたい。泣かなくてもいい。踏みつけながら抱き締めたい。抱き締めて腕をまわした背中を、血が出るほどに引っかいてやりたい。
心がねじれていく。ねじれて、気持ちが兎へ傾いていってしまう。

顎のあたりまで垂れ落ちていた果汁を、右手の甲で拭った。
そのまま、右手を兎の口元へ持っていく。兎の視線が、俺の手の甲に移った。
兎が身を引こうとするより先に、延ばした左腕で兎の髪を掴んで止めた。

「舐めてみろ。うまいのが、わかる」

髪を掴む手に力を込める。兎は顔をしかめて痛みをうったえた。

「舐めてみろって言ってんだ。やらねえなら…ひどくするぜ。この前より、もっとな」

手の甲をを兎の唇に押し当てる。冷たい唇だった。きつく閉じてる。
外で強い風が吹いていた。障子が窓先でガタガタと落ち着かない音をたてた。兎が見つめる瞳の中には俺しか映ってない。

「舐めてまずけりゃ…そうだな。噛みつきゃいいさ」

ゆっくりと、兎が唇を開いた。目を伏せて、兎は焦れるほど慎重に舌先を唇からのぞかせた。
口付けのように、兎の舌が俺の甲に触れた。柔らかく、ぬるい温度だ。俺の手の甲を兎が舐めた。

「…もっと」

もう一度、兎が手の甲を舐めた。

満足の中に一滴ずつ快楽が混じっていく。熱が胸の中に満ちていく。体の芯をつたって下腹部にまでその熱が広がっていくのがわかる。いい気分だった。
俺は髪を掴んでいた手を離して、兎の後頭部を包み込むように撫でてやる。
俺の右手を兎が舐める。俺は左手で、兎の髪を撫でる。随分と、甘いしつけだ。


兎は目を伏せたまま、しばらく俺の手の甲を舐め続けていた。

「…他の果物は、食わねえのか」

兎は舐めるのをやめて、俺を一度見上げた。
もうとっくに、果物の汁の味なんてしていないはずだ。

「腹、減ってんだろう」

ほんの数秒の間を置いて、兎は頷く。

「食うなとは誰も言ってねえんだ。食えばいい」

兎は皿の方を見て、それからまた、俺を見上げる。今度は首を横に振った。
俺の手を、自分の両手で包み込んで柔らかく握る。

「ふん。四つん這いでは食いたくねえってか」

兎は頷く。包み込んだ俺の手の甲へ、頬を寄せた。

「駄目だ」

兎は俺を見る。

「…お前は兎だろう」

兎は頷く。そうだ、それでいい。俺の兎だ。

「なら、兎らしく食え」

兎は頷かない。……堂々巡り。
案外と頑固な兎らしい。兎はもう一度俺の手の甲へ頬を寄せて、目を閉じてしまう。柔らかい感触で、そっと俺に体を預けるように頬を触れさせてる。どうしてだか今の兎に怯えた様子はない。
俺は溜息をついた。万斎の言うことは、いちいちもっともだ。
俺はあまり飼い主に向いてなのかもしれねえ。しつけがどうしてか甘くなってる気がした。
この兎が悪い。こいつをいたぶるのは、言うまでも無く当たり前に楽しい。なのに、いつの間にか、気まぐれに甘やかしてみたいと思ってしまう。
そんな血迷いさえ起こさなければ、とっくの昔に斬り捨てていたはずなのに。

兎にとられていない、空いた左手を皿に伸ばして、もう一切れ果物をつまみあげた。兎の目の前へ持ってくる。

「…手は、使うなよ」

兎は目を見開いて、一度瞬きをした。その後で、ゆっくりと頷いた。

俺の指先がつかむ果物へ、兎は静かに唇をつける。小さく前歯で噛み切りながら、食べていく。すぐに一切れ食べ終わった。俺は二切れめを取って、同じように兎の口元へ持っていってやる。兎は少しの間も置かずに、俺のやる果物を口に入れていく。
皿の上にあった果物全て、そうして兎が食ってしまった。

兎は空になった皿をみて、満足そうな息をつく。兎が初めて、ほんの少しだけ笑った気がした。俺の目の前で静かに小さく兎が笑う。

「お前は我が侭すぎる…飼い主に似たんだか」

兎の口の端から果汁が一筋伝う。それを兎が自分で拭おうとしたので、その手を掴んで止めた。

「…拭いてやるよ」

そのまま抱き寄せて、濡れた唇へ口付けた。甘い果物の味がした。
確かにうまい。
兎の口元から流れる果汁を舐めながら、首筋へ口付けの位置が下がっていって、数日ぶりに兎を抱いた。



back     next





inserted by FC2 system