兎の標本 07 万斎の部屋での夜が明けて以来、3日が過ぎた。 兎は俺に懐かない。拒絶もしないかわりに、近寄ろうともしないのだ。 一つの部屋の中にいても、俺と同じ布団では眠らない。俺と同じ飯も食わない。部屋の隅に座り込んだまま、眠ってばかりいる。 俺が面倒をみてやる義務もないので、そのまま放っておいた。 昼間の間は屋敷を空けて、街を歩く習慣だ。ただ、その日は街へ行きつく前に雨が降ってきた。仕方ないので、屋敷へ戻る。 本格的に雨脚が強まる。屋敷の中に入っても、雨の音が聞こえていた。時刻のわりに夜が近いかと思うほど暗い。 そう言えば兎の流行り病はどうなったのか。廊下を歩きながら考えた。今のところ俺にうつされた気配は無かった。最初の晩こそ薬を飲んでいたが、あれ以降一度も飲んでいるところを見ない。 「おや、晋助」 廊下を曲がった先、万斎がいた。万斎は丁度、俺の部屋の襖を開けようと手をかけようとしていた。 「…タイミングを誤ったでござるな。これは失敗。拙者としたことが迂闊な」 「何言ってやがる、ドンピシャじゃねえか」 もしもお前が、俺に用があったんなら。 万斎は右の手のひらに皿を乗せていて、その皿の上には果物が盛られていた。俺が持ってこいと言いつけた覚えはない。じゃあ、それは誰のためのものだ? 「まいったでござる」 「そうかい」 「ああまいった。晋助がまさかこうも早く屋敷に戻ろうとは。ああ困った」 万斎は口先だけで慌てたような振りをする。いつだって二枚も三枚も仮面をつけて、作り物の声で会話をする奴だ。 鬼兵隊の中で誰よりも、万斎のことを信用している。それと同時にいつも気に食わなかった。合わせ鏡の中に映った俺を想像させられる。沢山の俺が映っている中で、俺自身は笑っていないのに、一人だけ笑っている奴がいたとしたら、それが万斎だ。 万斎は俺を煽ってる。苛立てばこいつの思うツボになるだけだとわかっていた。 キセルでも吸って一息つきたい。でも今は手元になかった。部屋に戻らないと用意できない。少し歯痒い気分だ。 万斎のすぐ正面まで近づいた。襖は敢えて開けない。万斎を部屋へ上げたくなかった。 「用ならここで言え。聞いてやる」 「いやなに。用というほどの用でも」 「なら帰れ」 「…随分な言い方を。せめて一目、兎殿に会わせてもらえぬか」 面白いのと苛立つのと、気分は半々だった。外で降り続ける雨の音が廊下中に薄く響いて、耳障りだ。 「会ってどうする。酒の相手でもさせてえか」 「邪推でござる晋助。拙者はただ、兎殿の身を案じているだけ」 真顔で言う。その口調だけ真剣だった。あんな兎ごときに、こいつまで執心かよ。気持ちの天秤が苛立ちにカタンと傾いてしまう。 「そりゃ…面白えな」 襖を一気に開ける。バシンと弾くように大きな音がして、開いた部屋の中は廊下よりもっと暗い。 「おい兎。お前に客だぜ」 襖に寄りかかって、言った後に万斎を見た。 「起きゃしねえな。入れ万斎。やりたいことがあんなら、やってくれて構わねえ」 「…晋助」 「俺もこの前、お前の部屋を借りたんだ。お前も俺の部屋でやってけばいい」 「晋助」 「俺がいない間にやってた通り、やればいいだけの話だろう。見せてくれよ」 「おい晋助」 「入れ。聞こえねえのか」 万斎が溜息をつきながら、足を一歩踏み出した。万斎は畳の軋む音さえ立てずに歩く。静かに兎の傍へ近寄っていったが、兎が起き上がる気配はない。 万斎が兎に、何をどんな風にするのか見てみたかった。たったこの数日間で、万斎が兎を手なずけていたんなら…俺は随分と中途半端な道化だろう。 部屋の一番奥の、一層暗い影は兎だ。いつものように、まだうずくまっている。 万斎は兎の傍にしゃがみ込んで、手に乗せていた皿を兎の横へそっと置いた。 そのまま俺の方へ戻ってきた。 部屋を出て廊下に立つと、俺の方に顔を向ける。 「晋助、襖を閉めてもよいか」 「お前も薄情だな」 「拙者が?」 「ああ。あんな風に皿だけ枕元に置き捨ててよ。俺がいちゃあやりづらいか」 少しだけ首を捻って、万斎は部屋の中へ視線を向けた。そうして言う。 「いつもああでござる。拙者はいつもどおりのことをしたまで」 何がいつも通りなのか、俺はわからない。 「兎殿は拙者がいる前では食してくれぬ。故に皿を置いたら、拙者は部屋の外へ」 「貢ぎ物とは健気なこった。…泣けるぜ」 横から兎をさらった俺を、腹の底では恨むか。 「晋助は…ふふふ、何か勘違いをしておる」 口元に笑いを含ませて、万斎は言った。 「このまま衰弱死でもされたら…二匹目の兎を探すのは拙者。手間でござる」 「うまい言い訳だ。褒めてやる」 「わからぬ男だな晋助。失格でござるぞ」 「わかったわかった」 寄りかかっていた襖から、体を離して廊下に立つ。万斎は聞こえよがしについた溜息をつく。それを無視して、暗い部屋の中でキセル道具をどこへ置いたか俺は目を凝らした。部屋に灯りをつけさせてからキセルを仕込もう。 万斎が俺に背をむけて歩き出す。やっと行ったかと思ったのに、また立ち止まって今度は首だけで振り返った。 「晋助が何の世話もせぬゆえ、拙者が代わりをやっていただけの話でござる」 やけに通る声で万斎は言う。雨音に重ならない声は、耳が吸い込むようにはっきり聞こえてきた。 「懐かぬならば懐くようしつけるのは、お前の役目……ああそうか」 あからさまに含みを持たせた「ああそうか」。何に納得した気でいやがる。 自信たっぷりな物言いだった。歌でも歌うように、どこか濡れた響きのする声だ。その裏に身の程知らずな挑発を潜ませてる。 「そうかそうか。それこそ荷が重かったか」 「何がだ」 「晋助では飼い主に役不足。…大いに、不足」 たっぷり数秒俺を見つめて、更に口を開く。 「襖を閉めて独りにせねば、兎は餌を食わぬ」 俺は返事をしなかった。 「肝心の飼い主が、しつけの一つもできぬゆえ…とんだ手のかかる兎に」 万斎は足音を立てずに、廊下の先へ歩いていった。 キセルを吸いたいと思う気持ちは、なくなっていた。 back next |