兎の標本
06





開かれたままの扉から、冷たい外の空気が吹き込んできた。浴室に立ったまま動けない私の体が、静かに冷えていく。
高杉晋助がいると思うだけで、どうしたらいいのかわからなくなった。下着ひとつつけていない裸の状態なのに、ただその場から動けない。
背中の向こうで、衣擦れの音がする。高杉晋助が着物を脱いでいる。浴室へ入ってくる気配の後、静かに戸が閉められた。

そっと振り返ると、高杉晋助は私がさっきまで座っていた浴室用の椅子に座っていた。黙ったまま頬杖をついて、少しぼんやりしていた。

「風呂場でまでどうこうするつもりはねえよ」

しらけた口調だ。でも、嘘ではなさそうなので少しだけ安心した。


高杉晋助は、私に背中を流せとも外へ出ておけとも言わない。なので、私はずっと洗い場の隅で立ったままでいる。高杉晋助が自分の体を洗う様子を眺めていた。
色の白い人だな。
背中や腕の線を目でなぞるよう見つめて思う。多分、何か意志をもって鍛えられた体なんだろう。鎖骨から肩につながる骨や、筋肉で盛り上がる腕の腹に目をこらす。くるぶし一つ、つま先の足の指一つとっても骨格ごと美しく思えてしまう。
男の人の体そのものに目を奪われたのは、初めてだった。


高杉晋助は体と髪を洗い終えると、立ち上がって浴槽へ向かった。私のことはまるでいないものとして、一瞥すらくれない。
そのことに安心すると同時に、少しだけ困った。もうすっかり、私の体は冷えきっていた。これ以上待つのも無意味な気がする。だいたい、何を待ってるのかもよくわかっていない。今更だが出ていった方がいいだろうか。

「兎、来い」

浴室の一番奥から、高杉晋助の声がした。




高杉晋助は、浴槽に背中を預けている。胸を正面へ開いてみせるように、両肘を浴槽の淵にかけて寛いでいた。私はそれと向かい合う正面で、膝を抱えて座っている。
肩まですっかりお湯の中に浸からせていたのは、高杉晋助の視線に直接触れない部分を少しでも多くしたかったからだ。裸を見られたくない以前に、向き合っていることが気詰まりで、心苦しかった。

「お前、万斎に何か吹き込まれたろう」

高杉晋助は言う。怒っているわけじゃなさそうだ。口元が少し笑っている。
浴室の天井はガラス張りになっていて、明け方が近い空が見えた。夜空の色が薄くなって、半分赤くなっていた。朝焼けならば、明日は雨が降るかもしれない。それを扇ぐように高杉晋助は、悠々と見上げて息をつく。

「まあ…大方の見当はつくがな」

本当だろうか。いや、きっと私にカマをかけてるだけだ。
そう思って、高杉晋助の顔を見つめたのが悪かった。

「俺がカマかけてるだけだと思ってんのか」

驚いた。それが顔にも出たのか、高杉晋助は喉を鳴らすあの笑い方をする。

「当たりかよ。兎のくせに疑い方だけ一人前だな」

広い浴室の中は、洗い場の方にしか灯りが灯されていなかった。なので奥に位置する浴槽は、全体が影に覆われたように薄暗い。
たっぷりと張られたお湯は、少しぬるい気がした。
ふと、高杉晋助が片方の腕を湯船の中へポチャリと落とす。そのまま、私の方へ手が近づいた。

「遠いな」

浴槽は狭くない。私は意識的に高杉晋助からある程度の距離をとっていた。高杉晋助が今、腕を伸ばしても私の膝へ指先が軽く触れただけだ。少しでも私が身を引けば、簡単に距離があけられる。

「来い」

命令されたら仕方ない。少しだけ前に体を詰めた。

「馬鹿。足らねえよ」

不機嫌そうな声で言われる。右側の眉がひそめられていた。さすがに入浴の時だからか、高杉晋助は左目に包帯を巻いていない。代わりに長めの前髪に隠されていた。濡れた前髪が、ベタリと張り付くように高杉晋助の左目を覆う。その左目も、きっと同じように不機嫌に歪めているんだろうとぼんやり思った。
薄ら笑いを浮かべる高杉晋助は、底が知れない沼のような恐ろしさがある。けれど、あきらかに機嫌をそこねかけている声は、その沼から顔を出した大きな蛇に睨まれているようなものなので、やはり怖い。

膝を抱えて、折りたたんだ脚で少しずつ間を詰める。どんどん距離が縮まっていくのを、高杉晋助は黙ったまま、ただ見ている。温度や感情を感じない目は、顔が整っているだけに不気味に思えた。

高杉晋助が膝を立てて開いた脚の間に、すっかり私の体がおさまる。そうなってやっと、「とまれ」と言われた。

もう一度腕が伸ばされて、今度は楽に私へ届いた。高杉晋助が右目だけでうっすら笑った。嬉しい、というよりも満足した、という風だ。触れたその指先を私の首まわりへ、優しく包むように這わせた。

「お前、ほんとに声ださなかったな」

さっきの、部屋でのことを言ってるのか。悪趣味な話題だと思う。
それは出さなかったのと出せなかったのと、両方だ。心を通わせた同士でもない行為の間、ずっと早く終わればいいと思っていた。思い出したくない出来事だ。目の前の高杉晋助から、さりげなく視線を外す。

「おかげで俺には随分良かったぜ」

喉を震わせて、高杉晋助が笑う。胸の奥で、ジクリと痛むような苛立ちを感じた。
私には何も良くなかった。良かったわけがないとわかってて、わざと言っているんだろう。高杉晋助は顔が綺麗なのと反対に、言葉も態度も歪んだ男の人だ。
こんな人に一体どんな権力があって、万斎さんや他の沢山の人が付き従ってるんだろうと、不思議に思った。

高杉晋助の目を見据える勇気はなかったので、首筋あたりを見つめながらそんなことを考えていた。

「万斎がお前の声を聴いたって話。ありゃあ嘘だろう」

どう答えたらいい。どれが一番無難な答えだ。
動揺して胸が騒ぐのが自分でもわかった。でも、それを高杉晋助に気取られるわけにはいかない。目を瞑ってしまえば、せめて視線が泳ぐことくらいは誤魔化せるだろうか。

首にまわされていた指先に、やんわりと力が込められる。
高杉晋助は、私へ言い聞かせるように囁いた。

「面白くねえんだよ、そういうつまらねえ煽り文句は。嘘じゃないと言い張るんなら、お前には今度こそ本当に用はねえぞ」

呪うような気持ちで思った。
万斎さんも高杉晋助も極端に物騒すぎる。選択肢が二つしかなくて、片方を選べば死ぬとわかっていたら、それは選択じゃなくて強制と同じだ。
残りの答えが本当に合っている確信だって100%じゃない。
答えを口にすること自体が圧力になってのしかかる。なかなか返事をできずにいた。どうやれば一番上手に言い逃れるか、そればかり考えてしまう。

結構な時間を、黙ったままやり過ごす。
高杉晋助が溜息をついた。

「なあ、教えてくれ。万斎は…お前の声なんざ聴いてねえよな」

今の言葉は、本当に高杉晋助が口にした言葉か。信じられない…。
半分泣いてしまいそうな声、すがるような響きの影が胸の中へ落とされる。本当に高杉晋助なのか。もう一度頭の中で繰り返してみた。
それは脅されるよりも鋭く、もう既に心に刺さってしまっていた。

「聴いてねえんだろう?万斎の奴なんかに、お前は声をくれてやってねえはずだ」

私の首にまわされていた指が、滑るように上って耳へ触れる。
高杉晋助は空いていたもう片方の手を、湯の中でそっと私の腰に置いた。
本当は優しく人に触れることができるんだ。だって今、高杉晋助の指は私の肌に柔らかく触れている。
それを信じて、本当のことを言うべきかもしれない。


迷った末に、勇気を出してほんの少しだけ首を縦に振る。
高杉晋助の右目が切れ長に細くなって、そうして軽く伏せられた。
表情が消えたような気がした。
耳にかけられていた指先が、髪をすきながら頭の側面を包んだと思ったのは数秒、爪をたてて強く髪を掴まれる。私は痛みにひきつれるように息を吸って、喉を弓なりにさらした。
その状態のままゆっくりと、無理矢理に頭が上に持ち上げられていく。

「よかったなあ兎。…ああ、よかったじゃねえか」

今度は腰にまわしていた手で、力一杯に高杉晋助は私の体を自分の方へ引き寄せた。抱き締める力はどんどん強められていく。骨がきしむ痛みを初めて味わった。

「俺も存外に単純な男らしいぜ。今、悪くねえ気分だ」

息が苦しい。
少しでも力をゆるめてほしくて、もがいた手が高杉晋助の髪にふれる。
私が今されて苦しんでいるのと同じように、この人の髪も力一杯引っ張ってやりたい。
でも、それじゃあ高杉晋助と同じだ。
高杉晋助なんて大嫌いだと思う。
こんな気まぐれで嘘つきで、乱暴な人と同じ人間になりたくない。

その気持ちだけで、高杉晋助の髪を撫でた。
締め付けられる力が強ければ強いほど、私は出来るだけ優しく、愛情でも込めるようなつもりで高杉晋助の髪を撫でる。心の中で大嫌いだと何度も呟きながら、その気持ちの分だけ指先からは力を抜いて、高杉晋助の髪をすいた。

あまりにも報われない対抗策だと自分でも思う。溜息が出そうになる。
でもそうしているうちに、少しずつ上半身を締め付けていた力が緩められていくのがわかった。乱暴に掴まれていた髪からも、スルリと指が外されていく。

驚いたけれど、高杉晋助の髪を撫でる手はとめなかった。やめれば、またきつく髪を引っ張られそうな気がしてできなかった。
高杉晋助は私に髪を撫でられながら、ゆっくり自分の頬を私に頬へ重ねて合わせる。耳元へ一層低めた声で囁いた。

「しょうがねえ、お前を飼うさ。どうせそれが望みなんだろ」

諦めたような溜息が混じっていた。
今まで聞いた高杉晋助の言葉の中で、一番生々しく聴こえる。

「その代わり」

高杉晋助は、しばらく沈黙した

「…お前はただの兎だ。人間扱いはしねえぞ」

合わせていた頬がゆっくりと離れて、高杉晋助の顔が正面へくる。
近すぎて、どんな表情をしてるのかわからない。

「文句はねえな?」

頷いた。

「そうか。なら、お前に何しようと自由…」

少し顔を傾けて、唇が触れた。押し当てるでさえない。紙一枚挟んでるかと思うほどのささやかさだ。一度触れて、それからまた触れる。今度はついばむように柔らかく、何度も唇を重ねてくる。
愛しまれているかと思うような口付けだ。心地よかった。
合わせた唇の隙間で呼吸をしながら高杉晋助は言った。

「俺にこうされると、気持ち悪くてお前は嫌なんだろう」

確かに、さっきの部屋での時はそうだった。
真っ黒で凶暴な動物の、生臭い舌なめずりを受けているような口づけだと思った。
でも今は全然違う。
高杉晋助がどういう気持ちで私に口付けているかわからない。でも、それを受け入れることに不快感を今は感じない。

「兎、お前を優しく愛玩してやるつもりはねえよ。」

あんなに乱暴に叩かれた頬を、するりと撫でられた。

「遊び潰してたら捨ててやる」

浴槽の中で、私は高杉晋助の静かな口づけを受け続ける。終わったのは、湯がすっかり冷めてしまった後だった。




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