兎の標本
05




万斎さんが行ってしまった後、やっと体が離された。中に入っていたものが抜かれていく時、その感触の気持ち悪さに鳥肌が立つ。
この今の状態を、誰に向かっても恨めないのが辛かった。自分が悪い。舌を噛み切って、今を断つこともできない。心底情けなかった。私の守るべき自尊心なんて、この程度なのだと思い知る。
私の隣へ仰向けになって、その人は言った。

「湯浴みしてこい」

低い声だったので、よく聞き取れない。きっとまた、私の顔がひどいだとかそういうことを言ったんだろう。
手のひらで涙を拭いながら、その人へ背を向けるように寝返りをうった。数秒して、今度は舌打ちをされた。

「湯浴みしてこい。生臭えんだよ、お前」

息がつまる。潰れた心を、最後の欠片まで踏み潰された気がする。
生臭いのは、誰のせいよ。私の足の間を汚してるのは、私が流したものじゃないのに。
それでも、逆らう気力はなかった。起き上がって、腰のあたりでぐしゃぐしゃになっていた着物を直す。その人がどんな様子でいるのか見ないようにして部屋を出た。
大きな屋敷だけれど、歩いていれば誰かに会うはずだ。その時にお風呂場の場所をきこうと思った。


廊下を歩いて、最初の角を右に曲がる。夜明けが近い薄暗闇の中で、人影があった。万斎さんだとわかる。
安心したのが半分、気まずさが半分で立ち止まった。ゆっくりと万斎さんの方が歩いてきて、私の正面に立った。

「兎殿。浴室は、こちらではござらぬ」

どうして湯浴みしてこいと言われたのを、知ってるんだろう。驚いて万斎さんの顔を見上げた。万斎さんは少し体をかがめて、私と目線を合わせて言う。

「晋助と拙者は似たもの同士。ゆえに考えることはわからぬでもない」

万斎さんが、口元だけ薄く笑った気がする。

「案内いたそう、晋助の大事な兎殿」

私は唇を噛んだ。全然大事になんて扱われていないのを、あなたは見て知っているくせに。
万斎さんは優しいようで、あの人と同じくらい意地悪だ。





浴室の灯りは既についていた。

「ゆるりと湯浴みなされよ。さすれば身の疲れも心の傷も、癒えるでござる」

背中を押されて、脱衣所へ入った。
簡素な作りの脱衣所だ。壁につくりつけてある棚は、ほとんどが空だったけれど、一つだけ棚の幅と同じくらいの大きさの籠が入っていた。
中を見ると、ガーゼのような柔らかい肌触りの布が入っている。タオル代わりだろう。一緒に着物が畳んで入れてあった。


浴室は広かった。入ってすぐの洗い場だけでもたっぷり二部屋分ほどの広さがある。足の裏に感じる、湿った板張りの感触が柔らかい。漂う湯気を感じると、途端に気が急く。早くお湯に体を浸したい。体に張り付くような、だるさと汚れを洗い落としてしまいたい。

シャワーがついていた。置かれていた椅子に腰を下ろして、コックを捻ると丁度いい温度のお湯が出てくる。
お湯を胸元に浴びながら、昼間のことを思い出していた。


あの人から、私を外へ連れて行けと命じられた万斎さんは、私を神社へ連れて行ってくれた。私が万斎さん達に出会ったあの神社だ。そうして、私がこのおかしな世界へ紛れ込んでしまった、境目の場所でもある。
神社へ着くまでの町並みを歩いていて、気付いたことがあった。ここは江戸時代の町並みにとてもよく似ているのだ。夢を見ているというより、タイムスリップでもしたのかもしれないと思った。
擦れ違う人たちの着ているもの、建物の様式、今の日本とは違う。そうして、江戸時代のそれとも少し違っている。近代的なものと江戸様式のものが交じり合った、不思議なこの世界は、一体どこなんだろう。
そんなこと考えているうちに神社へ着いて、私はまず、お賽銭箱の前で手を合わせた。元の世界に帰れるように文字通りの神頼みで祈りたかったからだ。
具合が悪かろうと誰も傍にはいてくれなくていい。元の普通の生活へ戻りたい。それだけを心の中で呟いた。

そうして振り向いた後、私がどれくらい驚いたか。血の気がひいて、身動きできなかった。瞬きを忘れる。万斎さんが刀を抜いて、私にむけていた。




「神社で人斬りとは、さすがにヘビーでござる」

切っ先が銀色の光を反射する。

「いくら晋助の命とは言え、女を殺めるのもさすがに飽きたか」

一歩万斎さんが近づいて、私の喉元に刃があたる。やっと状況が飲み込めて、息すらできなくなった。私はあの人から、解放されたんじゃなかったんだ。用の無い道具を捨てるように、簡単な気持ちで殺されそうになっている。

万斎さんは言う。

「あと何度これを繰り返せばよいのやら」

溜息をつきながら私の喉へ刃の先を一層突きあてた。

「兎殿、拙者を解放してもらえぬか。もう拙者は無益に女を斬りたくない」

そんなことを言いながらこの人のやっていることは真逆だ。何より、人を斬ることへの罪悪感から、『斬りたくない』と言ってるんじゃないのが恐ろしい。飽きたとか、無益だからとか、理解できない感覚につま先から震えが走る。

「いい加減にせねば音楽性に響くゆえ、つまり…そうだな、つまりでござる。兎殿には晋助のもとへとどまってもらいたい。晋助自身が必要に求める存在になってもらいたい。そうすれば晋助はこれより先、無駄に女を拾って抱くことはなくなるし、拙者は後処理係のお役御免、女斬りは封印でござる。これはめでたい」

淡々とした口調なので、言っている意味に現実感が感じられない。
その時、蝶が一匹飛んできた。アゲハ蝶だ。私と万斎さんの間を横切るように羽ばたいていく。

「兎殿、これは頼まれて損は無い話でござるぞ。もし兎殿が承諾して、拙者の提案を呑んでくれるならば」

瞬間、剣が私の喉元から離れて宙を切る。足元に蝶の残骸がパラパラと落ちた。

「兎殿の命を助けよう」

万斎さんは、そこで言葉を終わらせる。続きは聴かなくても明らかだろう。もし私が提案を呑まなかったら、この蝶と同じように刀を受ける。私は頷くしかできなかった。


屋敷へ引き返す帰り道、自分は河上万斎という名前なのだと教えてくれた。あの人は、高杉晋助という名前なのだとも。私の名前は聞かれなかった。この人達にとって、私がどこの何者かなんてどうでもいいらしい。

「晋助が兎殿に執着するための、取っ掛かりは拙者が作ろう。無論、そのために兎殿には少々無茶を強いることになろうな」

どの程度の無茶なのか、不安になって万斎さんを見上げる。

「心配なさるな…と言いたいが、こればかりはそうもいかぬ。だが命あっての何とやらでござるぞ兎殿。晋助の心が兎殿に固まるまでは、拙者の言うとおりにしてもらうのが最良の策。そうでなければ」

万斎さんは、歌をよむように優しく言う。

「拙者が兎殿を生かしたところで、晋助に斬られてジ・エンド」




シャワーのコックを捻って、お湯を止めた。ここまで、言われたとおりにしてきた。だからといって、あんな目に遭う覚悟まで本気でしていたわけじゃない。
私は考えが甘いんだ。何にしても、つくづく見通しが甘すぎる。

この浴室には鏡がなかった。そう言えば、脱衣所にも鏡がなかった。でもむしろ、なくてよかったと思う。今は自分の顔も体も、どんな状態か想像がつくだけに見たくない。

浴槽へ浸かることにした。
立ち上がった時、後ろで浴室の戸が開く。

「よお、色気のねえ背中だな」

怖くて振り返れない。それでも、開いた戸に手をかけて立っている姿が見えるような気がした。

高杉晋助がきた、と心の中で呟いてしまう。




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