兎の標本
20





晋助は機嫌よく酔って、そのまま毒売りの主人のところへ出かけていった。
仕方がないので、拙者が晋助の殺したウサギを処分することになる。
夜の街を歩いた。今日は何の予定もない。
籠の中の死骸をどう処分するか考えていたら、ヘッドホンから聴こえる音楽がいつの間にか軽やかなピアノ協奏曲に変わっている。立ち止まると、あの神社に着いていた。兎殿が現れて、消えた神社だ。
暗闇の中でも鳥居は赤さを失わない。石畳を歩いて拝殿まで来た。
賽銭箱の前に立つ。暗い境内には拙者以外に参拝者の姿はなかった。

「何も捧げものがないでござるな…」

このまま兎殿が戻らなければ、振り出しに戻る。また何人もの女を無駄に斬らねばならない。晋助は世にも珍しく繊細な獣だ。傷つけば二度と再生しない。傷口は広がり続けて、霧雨のように毒をまく。誰よりも自分の死を望むくせに、呆れるほど大喰らいだ。食べても食べても、殺しても殺しても、愛しても愛しても晋助の飢餓感には果てがない。

賽銭箱の上に、籠から出したウサギを置いた。赤黒い血で汚れた死体は、もう固くなって四肢を投げ出した体勢から動かない。

「さて…あとは、待つばかりでござるか」

石の階段に腰を下ろした。神社を見渡す。風の無い夜は、時間の流れからこぼれ落ちたように静かで良い。



* * *



1日が終わる度に手帳を開いた。カレンダーの終わった日付を黒く塗りつぶす。
血を飲むような毎日を重ねて、やっと一ヶ月を真っ黒にすることができた。

今日もきっと、このまま食事もせずに朝を迎える。
私は暗い部屋の中でベットに横たわって、目を閉じている。服装も仕事から戻った時のままだった。

「…高杉」

もう二度と会えないんだろうか。それとも全部が夢だったのか。
声を上げながら泣いた。触れたい、傍にいかせてほしいと声に出して懇願する。両耳を塞いで体を丸めて、悲鳴のように高杉晋助の名前を呼ぶ。

きっと、私の頭の中に蛇がいるんだ。蛇が暴れ回るから、こんなに頭痛がひかない。蛇が毒をまき散らすから、こんなに高杉晋助のことばかり考えてしまう。
私の中にいる高杉晋助を、その幻を殺してしまいたい。
彼の傍にいられないなら、腐った体を引きずって生きていくのと同じだ。
高杉晋助の声が私に耳を作ってくれる。高杉晋助の瞬きが私に目を与える。高杉晋助の肌が私に温度を教える。高杉晋助に抱かれる時だけ、私の体に時間が流れる。

頬から溢れた涙が唇の中に流れてきた。飲み込んでも味がしない。
瞼を閉じた暗闇の中で、あの神社を思い出す。
高杉晋助に初めて出会った場所は、探してもどこにも見つからない。



その晩、久しぶりに夢をみた。

私は真っ白な空間に立っている。天井と床の継ぎ目が見えない広いのか狭いのかもわからない…。
足下をみると、赤い斑点が散らばっていた。不透明な赤さに、きっと血液だと思った。
それは私の足下から、空間の先へとまばらな間隔で落ちている。
辿って、血の跡を追いかける。
走った先には2匹の狐がいた。真っ白で人間くらいに大きな2匹の狐は、向かい合うようにお互いの頭を付き合わせて何かを食べている。
その2匹から少し離れたところに、高杉晋助がいた。
着流しの中で腕を組んで、俯いて立っている。
高杉晋助に近寄ろうとしたとき、2匹の狐が私を見た。
2匹の足下にはウサギの死体があった。ウサギを食べていた。

思わず目を閉じる。動けなくなった。指も瞼も動かせない。
もうすぐそこに高杉晋助がいるのに、どうして。自分の体が骨から冷えて、それなのに汗が流れていくのがわかる。

「苦しみなんて、どこ行ったって変わりゃしねえよ」

高杉晋助の声だった。私を呼んでよ。こっちへ来いって、呼んで。

「どんな色も混ざれば濁る。濁ったものは戻らない」

頬に何か付いた、と思った時、目が開いた。頬に触れると指が赤く汚れる。
2匹の狐は血溜まりの中で眠るように倒れていた。
高杉晋助は俯いたまま立っている。片手に抜いた刀を持って、その刀から赤い血が流れている。
急ぎすぎたら消えてしまう気がして、一歩ずつ、私は高杉晋助の傍へ行く。
高杉晋助は顔を上げない。刀も片手に持ったまま離さない。
永遠に形があるなら、それをたたき壊したくなるほどもどかしい。
あと一歩、この手が高杉晋助に触れる。
私の伸ばした指先が高杉晋助の肩に触れたとき、風が吹いた。


*  *  *



ああ、気持ちの悪い風が吹く。早く行けと拙者を急かす。
立ち上がって拝殿の裏へ行く。

いつか晋助といたのと同じ場所に、兎殿をもう一度見つけることができた。
うずくまって、砂の上に眠る兎殿。また見慣れない装束を着て、少し痩せたようにも見える。
頬に赤い血のようなものがついていた。
傍へ寄って、兎殿の肩を揺らす。すぐに兎殿の瞼が開きかける。

さあ起きろ。お前こそが晋助に心臓を食われるべき女。




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