兎の標本
04



窓枠に腰掛けて、夕暮れの空を見ていた。昼間には真っ白だった雲も、今は夕日に照らされて朱色に染まっている。
どこかの雑木林でも、似たようなものが見られるだろう。兎が一匹、白い体から血を流しながら死んでるはずだ。
万斎は、もう帰ってきただろうか。


今までなら1時間もせずに戻ってきていたのに、今日に限ってえらく時間がかかる。つまらねえ曲でも思い浮かんだか、どこかで油を売ってるな。
人斬りの腕は悪くねえが、あの楽士気取りが欠点だ。

屋敷の主人が酒膳を持ってきた。膳を俺の前に置いてから、行燈に火を入れる。振り返って、何か他に用はないかと聞いてくる。

「万斎が戻ってきたら、俺のところへ来いと伝えとけ」
「わかりました。お声をかけてきます」
「まだしばらくかかるだろうよ。戻ってきてからでいい」

言いながら手酌で酒をつぐ。屋敷の主人が少し戸惑ったように言った。

「万斎様は…お帰りになってますよ」

なんだ。もう帰っていたのか。

「いつ帰ってきた」
「もう3時間は前でしょうか。ずっとお部屋にこもっておいでです」

違和感が胸をかすめる。
途中の酒膳をそのままに、万斎の部屋へ向かった。






廊下の先から、ちゃらけた音楽がかすかに聴こえる。
一歩ずつ歩を進めて、襖を開けた。俺は目を見張る。

「おや、晋助。何か用でござるか」
「どういうことだ。意図があんなら説明しろ」

琵琶を弾く手を止めた万斎の、すぐ横に兎がいた。白い着物には血のあとひとつ無いままだ。兎は、俺に気付くと同時に顔を背けて、万斎の背中の後ろへ身を隠した。

万斎はあぐらをかいた姿勢のまま、背中には兎をかくまって平然としている。襖の前に立つ俺に、悪びれた様子ひとつみせない。

「斬ってこいと言っただろう」
「はて。連れて行け、としか言われておらぬと記憶するが」

屁理屈だ。俺が女を拾ってきて、抱いた翌日万斎に「連れて行け」と命じた時は、殺して捨てて来いという意味なのだ。今までずっとそうだったし、明確にそう指示せずとも万斎はそうしてきた。

包帯の下で左目が軽くうずいてくる。

「…ふん。お前もその兎に興味あんのか」

俺と万斎では、女の趣味は正反対だったはず。だが他人のものだからこそ興味が湧く気持ちはわからないでもない。
万斎は琵琶に手を戻して言う。

「拙者は、兎に興味ござらん」
「じゃあどうして連れ帰った」
「囲おうと思っている、兎ではなく女子として。情婦というか、世間で言う癒しでござるな」

万斎が半身を捻って、後ろで身を縮めている兎の頭を撫でた。

「へえ。…物好きな真似すんじゃねえか。らしくもねえ」
「弱っている女に優しくするは、男の道理。晋助にとって兎殿は、もう用無しでござろう。ならば拙者がもらい受ける」

胸糞悪い。結局のところは、自分がその兎を抱いてみてえだけのくせに。
万斎は俺が苛立っているのを無視するように、のんびりした口調で言った。

「晋助には感謝せねばならぬ。拙者にとっては良い拾いものをした」
「…そんな兎の、どこがいい」
「声」

万斎は笑いを含ませて言う。

「拙者が剣を抜いた時、驚いてあげた声でござる。あれに惚れた」

兎の白い手が、万斎へすがるように背中から抱き締めている。







その晩、以前から約束をしていた密会へ、急遽万斎を俺の代理として行かせた。時間と場所を伝えた時、万斎は特段怪しむ様子は見せなかった。無表情に頷いただけだ。

月明かりの暗がりを、万斎が屋敷の門から外へ出ていく。俺は廊下の窓辺でそれを見送った後で、部屋へ向かった。自分の部屋じゃなく、万斎の部屋だ。

襖を開けると、一枚引かれた布団に人が寝ていた。
寝入っているようで、俺が部屋へ足を踏み入れても起きる気配がない。布団をはぐと、俺へ背を向けるように兎が体を丸めて眠っていた。
本当に、万斎の部屋で囲われることになったらしい。

こんな奴一匹に俺は執着するつもりはない。でも、今どうしても殺しておきたいほど欲しい気がした。


肩を掴んで仰向けにする。膝立ちの状態で腰元をまたいで、上に乗る。白い着物の襟元を力任せに左右に引っ張ると、肩口から胸元までが大きくはだける。
そうなってやっと、兎が目を覚ます様子を見せた。

少しだけ眉をしかめて、ゆっくりと目を開く。真上に馬乗りになっている俺を、しばらくの間ぼんやりと見つめていた。

「…むくみ、引いたな」

言った途端に、兎は意識をはっきり目覚めさせて、大きくもがくように腕を振った。爪の先が頬をかすめる。一瞬のかすかな痛みで、引っかかれたのだとわかる。兎はそこから一層度を失って、身をよじったり起き上がろうとしたりしながら、俺の下から抜け出そうと暴れだす。

昼間、万斎の後ろで大人しく縮こまってやがったくせに。昨日の晩は、俺の足元で寝こけてやがったくせに。
胸の中でおかしな感情が膨れていった。

「中途半端なんだよ、お前のやることは」

そう言うのと同時に、平手で兎の頬をしたたかに打っていた。

兎の動きが止まる。打たれた方向へ顔を横に向けたまま、動かない。驚きと恐怖が、混じった末は絶望だ。暗がりの中で、兎が体を強張らせて、俺への恐怖に震えているのがわかる。

「万斎に聞いたぜ。いい声してるらしいじゃねえか」

兎が小さく首を振った。何が違うもんか。

「別に聞かせてもらおうなんざ思ってねえよ。お前の喘ぎ声なんざ、聞きたくもねえ」

兎の両腕を捕まえて、左右へ開かせて押さえつける。上半身を傾けて、兎の首筋に唇を落とした。熱い。こいつの体は遊郭の女のように冷たくない。

「犯されんのが嫌なら、舌噛んで死んどけ」

兎の体が指先まで強張ったように感じる。

「まあ、死体になったところで、やるこたやらせてもらうがな」



兎の体の熱が気持ちよかった。どんなに唇で触れても、指先で触り崩しても、冷めないのだ。
最初は強張りきっていた体は、肌が触れ合う時間が経つほどに、ぐったりと力が抜けていく。硬く結ばれていた唇も、諦めたように半開きになっていく。

唇を合わせてみた。俺の唇も兎のそれも、乾いていたので感触が悪い。舌で湿らせてから、もう一度合わせてみた。まだ、良くない。兎の唇が乾いたままだった。

舌で兎の唇を大雑把に舐める。相変わらず兎はされるがままでいるので、俺は唇の感触そのものを楽しみながら、ただ舐めまわした。こんな動物じみた前戯、遊郭じゃできねえな。そう思うと何をしても新鮮な気がして、自分の体が焦れていく感覚すら気持ちよかった。

兎の呼吸が苦しそうだ。
それならもっと苦しませてみよう。舌を唇の隙間から奥へ入れる。
初めて、兎が嫌がる素振りを見せた。顔をそむけようとする。
ああ、俺にこういう深めの口付けをされると嫌なのか。
両手で兎の頭を押さえて、差し入れた舌で兎の舌を捕まえる。兎の舌はすぐに逃げようとするので、追いかけるうちに俺はどんどん加減を忘れてしまう。
いつのまにか俺の口元も兎の口元も、唾液まみれになっていた。自分の口元はぬぐっても、兎の口元はぬぐってやらない。

肌に強く口付ける。場所も力加減も気にせず、鬱血の跡をつけ散らかす。時々強くしすぎて、少し血がにじんだ。

お互い完全に着物を脱がないままに、体を繋げた。腰をつかんで揺さぶる間も、兎は俺へ手足をからめてこない。だから俺は、思う存分に何でもきつくすることができた。
何も考えずにただ腰を振る。兎の体が俺の一部分になってもいいように思えた。俺は自慰にふけるように自分の快楽だけを追って行為に没頭した。

吐息すら聞こえなかったように思う。
兎は最初から最後まで、一度も声をあげなかった。





俺の息だけがやたらに乱れていた。
兎は目を瞑って、唇もきつく結んでいる。
左目が熱を持っている。前髪が額にはりついていた。汗をかいたのは、随分久しぶりだ。
行為に一旦区切りがついたので、俺は部屋の外の気配に声をかける。


「随分早い戻りじゃねえか」

襖が開いて、万斎が姿を見せた。
まだ兎の開いた脚の間で、俺は中に入れて上からのしかかったままでいた。サングラスの奥で、どんな目をして俺たちの様子を見てるのかはわからない。

「もともとまとまっていた商談に、時間はかからぬ」
「ああそうかい、ご苦労だったな。事後報告だが、部屋借りてるぜ」
「見ればわかる」
「お前もやるか」
「そういう趣味はござらん」
「ああ、俺もだ」

俺の下の兎が、万斎から顔を背けながら手で覆う。 誰も喋らない。、顔を覆う指の隙間からかすかな声が聴こえた。兎が泣いていた。

「気になさるな、兎殿。これで死なずに済むなら安い代償でござる」

兎が小さく頷く。

「では、拙者はこれにて」

万斎は静かに襖を閉めて、部屋の中は再び俺と兎だけになった。





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