兎の標本 03 目が覚めてもまだ、それまでの日常の中には戻っていなかった。 そう広くない和室の窓際で、私はうずくまるように眠っていた。自分の部屋ではない場所だ。私は横になっている。手のひらが畳に触れる畳の感触や、着ている服の肌触りに違和感を感じた。 片手をついて、起き上がる。布団の代わりに着物を羽織らされていたことに気付く。やけに派手な柄で、起きぬけの目には少しきつい。 すぐ横にある窓の外を見た。空の色が明るい。もう、昼だ。 夢だと思うには時間が経ちすぎている。 神社で座り込んでしまったあの時以降、夢というよりも一つの別世界だ。 不思議な気分だった。けれど、妙に冷静でいられる。思う存分眠ることができた満足感のせいかもしれないし、やはり夢のように感じてるからかもしれない。 不意に後ろから声がかかった。 「随分寝汚ねえ兎じゃねえか、やっと目ぇ覚ましたか」 開いた襖に寄りかかって、男の人が立っていた。 声と喋り方に聞き覚えがある。神社で私に話しかけてここへ連れてきたのはこの人だ。 布団代わりに羽織っていた着物の柄を、もう一度よく見てみる。 ああ、これも、神社で会った時にこの人が着ていたもの。私にかけてくれたのかと考えて、ありがたい気持ちになる。 その人は、黙って私を見つめてくる。なので私もとりあえず、見つめ返して観察した。 神社では気付かなかったけれど、片目を覆って包帯が巻かれていた。 よく見ると、とても綺麗な顔をしているのだ。私が普段生活する中で、こんなに整った顔の人とは、擦れ違ったこともないだろう。 静かな湖に似た綺麗さだ。静かで水が澄みすぎて、生き物の気配がしない湖がその人の姿に重なった。 少し離れたところに立ったまま、その人は私を無表情に見下ろしていた。 そうだ、お礼を言わなくては。一晩お世話になったお礼を、きちんと言わなくてはいけない。私は着ていた薄着物の、襟元を整え直す。息を吸って、頭の中で言葉を並べて用意した。 それを言おうとした時、その人が口元を歪める。 「お前に鏡をやろうか」 少しだけ顔を俯かせて、見上げた視線で私を見る。喉を鳴らして笑いながら言った。 「顔のむくみ具合が傑作じゃねえか…元の悪さが際立って見事だぜ」 不意打ちで、心に浴びせられたのは泥水だ。 一瞬の間をおいて、私は顔をそむけて伏せた。 「おい、兎。こっち向けよ」 見苦しいと言われた顔で、向けられるわけない。 「聞こえねえのか。面見せろ」 お礼を言おうという気持ちは簡単にくじけて消えていた。上半身を捻って、完全にその人の方から顔が見えないようにする。本当なら、畳に突っ伏せてしまいたいほどだ。 もともと自分が垢抜けた顔立ちじゃないことはわかってる。寝起きで顔がむくんでいることも感覚でわかった。汚い顔だと馬鹿にされるの当然のことかもしれない。 でも事実と心は全然別のものだ。 ほんの一瞬とは言え、綺麗だと思って見惚れた相手だけに余計ひどい。 その人に対しての、悔しさや恥ずかしさが交じり合って黒く濁りながら心の底へ沈殿していく。怒りに似た気持ちで思う。こんな人に、口なんかきくものか。 「夜伽の相手もできねえくせに、よく平気で寝こけてられたもんだ」 わざとらしく溜息をつかれたのがわかった。 淡々とした呟きのようだけれど、私へのあてつけ言葉だ。 「なあ兎、器量悪の分際で横柄さだけ一人前…そんな奴がもしいたら、最低だと思わねえか。一体何様のつもりなんだかなあ。笑えねえ話だろ」 自分の無礼は棚にあげてよく言える。 でも悔しさを堪えて、私は顔を伏せたまま体をもう一度その人のいる方へ向けた。黙って、その場に手をついて頭を下げるだけの礼をする。 一晩体を横にさせてもらったことは感謝している。でも、今はあなたのことは嫌い。だから言葉では何も伝えない。 「兎よお、お前」 言葉を切った後、しばらく間があって、その人は細く息をついた。ギリギリ視線だけ上げて、その人の様子を盗み見る。薄い唇にキセルをくわえて、目を軽く細めながら煙を吐いていた。 「頭下げる以外、本当に芸無しだな。ま、最初から期待なんざしてなかったがよ」 たいして落胆した風もなく、その人は言った。いっそ悲しくなる。 どうして、こんな見も知らないところで、ほとんど完全に初対面の男の人から馬鹿にされなくちゃならないんだろう。 頭を下げたまま、少し顔を横に向けて窓の外を見た。真昼の光は、夢の中とは思えないほど鮮明で強い。 「外に出てえか」 唐突に言われた。その人の方を見ないまま頷くと、鼻先で笑われたのがわかった。 「じゃあ出してやる。万斎、連れてけ」 襖の陰からもう一人の男の人が姿を見せる。 「結局いつも、晋助の後始末は拙者任せ…こうなると思ったでござる」 溜息をつきながら呟いたその人は、さっきの人と格好も雰囲気も全然違う。耳にはイヤホン、目にはサングラス、背中にはギターのような楽器を背負っている。黒い長めのジャケットといい、今風の服装だ。 「では、兎殿。参ろうか」 声は、さっきの人よりも少しだけ高めで優しく聞こえて、なんだか安心してしまった。 立ち上がって、襖の方へ歩いていく。顔は下を向いて伏せていた。 と、私にむかってバンサイと呼ばれた人が手を差し出す。 戸惑って思わず見上げると、その人は少し首を傾げて「遠慮はいらぬ」と言う。 「晋助の相手をしての、翌日とあっては兎殿もお疲れでござろう。足元がおぼつかぬように見受ける」 「万斎、くだらねえ情けかけてんじゃねえぞ」 「それはこちらの台詞」 「どういう意味だ」 「さあ。晋助の想像どおりの意味かと」 「殺されてえか」 「まさか。冗談でござる。ご愛嬌ご愛嬌」 言いながら、差し出していた手をいっそう伸ばして、その人は迷ったままでいる私の手をとろうとした。私もゆっくりと、その人の手に指先を伸ばしてみようと考える。 その時だ。 「いい加減にしろ」 私とその人の手が触れ合う寸前、低めた声がそれを止めた。 「万斎、くだらねえママゴトは他をあたりな。さっさと兎連れてけ」 言い捨てて、その人は背中を向けると廊下の先へ行ってしまう。 「……それも拙者の台詞でござるぞ、晋助」 姿が見えなくなると同時に、バンサイと呼ばれた人は呟いた。 back next |