兎の標本
02





屋敷へ戻った。灯してあった部屋の行燈を消して、障子窓を開け放つ。
窓枠に腰掛けて背をもたれると、先には闇色の海だけが広がっている。上に月がのぼって、停泊してある船を薄暗く照らしていた。
この屋敷を当面の宿代わりに使うことにしたのは、海に面していたからだ。
江戸に下りて今日で丁度1週間、まだ目的の奴がみつからない。
そうして酒膳が運ばれてから、もう随分時間もたつのに、拾った女もなかなかこない。

「晋介殿。よろしいか」

襖の向こうから低い声が言う。屋敷の主人だ。俺の支援者でもある。

「よくねえ」
「そう言わずに。晋助殿が連れてきなさった女ですが」
「アレがどうした。さっさと連れて来い。手酌は飽きた」

実際のところは一口も飲んでなかったし、切実にあれを待っていたわけでもない。なのに嘘が先に出てしまう。

「急いで他の者を使いにやります。適当に遊女でも見繕ってきますので、もう少しお待ちいただきたい」
「…あれじゃ何か不都合か」

襖の方へ視線を投げる。
この屋敷に入れるには、あの女の身なりも面も貧相すぎるか。泥が泥を指差して、汚いと言うのは笑える話だ。

「持ち物に薬のようなものがありました。問いただしても口をつぐむばかり。幕府から送られてきた手先やもしれません。おまけに流行り病にかかっておりましょう。晋助殿の体にうつれば、災いせぬとも」
「抱きゃしねえし、明日には斬る。俺は使い捨てできるものしか拾ってこねえよ」

襖の先から、のそりと主人が去る。5分もしないうちに襖が薄く開いて、やっと女が来た。



「なんだ、あのおかしな服はどこやった」

そこそこ調べを受けたらしく、女は真っ白な薄着物に着替えていた。襖のすぐ前で正座をしたまま、俯いて部屋の中へは入ってこないでいる。膝の上に風呂敷包みを乗せていて、それを指差した。

「ああ。それか」

身包み剥がされたものの、ちゃんと返してもらえたらしい。ここの主人は生真面目だ。

「来い」

動かない。ここへ連れてくるまでに、ちらとも暴れたりしなかった。だがやはり、いきなり現れた俺を拒む気持ちはこいつの胸にちゃんとある。嬉しさを感じた。壊し甲斐があって、嬉しいのだ。
きっと愉快なことだろう。他人の希望を潰すのは、情欲で女を抱くより確実に快楽だ。

「襖の前に居座ったって、今夜のうちは帰しゃしねえ。来い」

畳に片手をついて、ゆっくりと女が立ち上がる。背中を丸めてノロノロと歩く姿は、死にぞこないの幽霊に似ていた。


酒が一式置かれた膳の前に座らせる。女は相変わらず首を垂れて、そのまま前へ倒れこんでしまいそうに見えた。

「お前、酒の作り方知っているか」

訊くと、ぎこちなく首を横に振る。

「使えねえな」

女はそれを気にしたようすもなく、膝の上の風呂敷包みをほどきだした。
開いた風呂敷包みの、一番上に置かれていた小さな紙袋を手に取る。
その紙袋の中から、薄っぺらい小さな袋が5つほど繋がった状態のものと、錠剤が入っているらしい薄紙を何枚かを取り出した。屋敷の主人が言ってた薬ってのはこれのことだろう。
女はそれを畳の上に広げて、一種類ずつより分けると残りをまた紙袋の中にしまった。

「おいおい、毒殺劇でも始める気か。俺ァそんなに容易くねえぞ」

女はそっと膝を進めて窓のすぐ下へ、俺の足元に寄ってきた。薬の入っていた紙袋を、俺に差出す。
『処方箋』、『朝昼晩・食後30分以内に服用』。やはり病気持ちらしい。

女が膳の上に置かれていた水差しを手に取った。それを自分の体の前に置いて、一揃えにした薬を傍に並べると、俺に向かって頭を下げる。

「恵んでくれってか」

薬を飲むのに、水が必要だ。女は頭を下げたまま、頷く。

「ふん。…いいさ、飲め」

女は頭を上げた。
膳の上から湯のみを一つとって、水を入れる。錠剤を薄紙から出して一つずつ飲んでいく。最後に小さな袋に入っていた粉状のものを飲み干すと、そのとき初めて、思い切り顔をしかめて身震いをした。
どうやら苦いらしい。一度で飲み下せなかったのか、もう一口水を飲んで、また眉根を寄せる。

「ご苦労だな。そんな苦いもんわざわざ飲むとは」

やっぱり酔狂に違いねえ。あざけり交じりに俺が笑うと、女はさっきとは違った風に眉をしかめて、困った顔をした。
水差しを指差して、小さく口をうごかす。声になっていなくとも、ありがとう、と言ったのがわかった。声のない女。まるで兎だ。


適当でいいから、とにかく俺の分も酒を作らせた。
兎は酒をつくる動作も鈍かった。こんな風に億劫そうに酒をつくる女は見たことない。それとも薬なんざ飲んでるだけあって、まともに体がはたらかねえのか。
俺に酒を手渡すと、風呂敷包みを置いたままにしていた、膳の前へフラフラと戻っていく。
そうして畳の上で横になろうとした。

「おい、待て」

兎はほんの少し顔を振り向かせて、面倒くさそうに俺をうかがう。

「寝るならここにしろ。丁度足置きが欲しかったところだ」

俺は自分の座る窓枠の、真下を指差した。
兎は聞き分けよく、従うことにしたらしい。
風呂敷包みを引きずって、注意深く俺のところへもう一度近寄ると、俺の目を覗き込んできた。もし、俺をこのまま窓から突き落とそうとしてきたら、その腕を捕まえて道連れにしてやろう。
そう考えて、目元に笑みが漏れそうになった時、兎はふいと視線を外した。

そうして、ヘタリとその場に膝をつくと同時に、体をうつ伏せて横になっちまった。風呂敷包みを枕代わりに、目を閉じてしまう。
もしこれが抱くなら抱けと誘ってるんだとしたら、随分色気のない方法だ。
まあ、色仕掛けてこられたところで兎なんか抱きゃしない。


足元の兎を見る。真っ白な薄着物は、月明かりを弾いて暗い部屋の中に細長く浮かび上がっていた。

俺は着ていた上掛けを脱いで、兎の薄着物の上にかける。窓枠から下ろした右足を、眠りこける兎の腰元に置いた。
足裏に感じる柔らかさが、予想以上に気持ちいい。思いっきり体重をかけて、踏み潰してみたくなるほどだ。
そのまま軽く揺らしてみたが、兎が目を覚ます気配は全くなかった。

こいつが飲んだ薬は何だったんだろう。
兎の背中を踏みつける右足の、力加減を重くしたり軽くしたりしながら考える。
薬にも色々だ。人を生かす薬もあれば、殺す薬もある。

兎を踏みつけていた右足に、きつめの重みをかけて押した。兎は目を覚まさない。
海を眺めて、気が向いたら足元の兎を踏み遊ぶ。
その繰り返しで、月が白んでいった。


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