兎の標本
01


真夏の昼間、白い光の中を家まで歩く。
病院へ行ったら診療代と薬代が予想以上にかさんでしまって、バス代すら財布の中に残らなかった。給料日前で、預金講座の中だって空っぽだ。

頼れる恋人も友達もいないし、家族だって他人みたいに疎遠で何年も顔を合わせてない。
本当に私って、何も持ってない女だな…。
人との繋がりを財産とは思わない。でも、自分以外の誰かを必要にしてしまう瞬間が時々ある。それは真っ白に塗ったキャンバスに、偶然落ちてきた虫みたいなものだ。すぐに追い払えても、キャンバスには小さな小さな汚れた足跡が残ってしまう。
アスファルトから立ち上る熱気と同じくらい、体の中も熱い。歩くごとに視界がずれていく気がした。それでも歩いて帰るしかない。

家までの道のりを半分ほど、影すら見えない長い上り坂へ来た。
額からこぼれる汗をぬぐう気力もない。溜息をついて道路の向こう側へ視線を流すと、ガードレールの先に雑木林が広がっていた。その奥にくすんだ赤い鳥居がある。
あんなところに、神社なんてあったっけ…。
鳥居の真下からは石畳が敷かれて、雑木林の奥へ誘い込むように続いていた。
(…もう歩くのが嫌なら、休んでいけばいいじゃない)
鳥居の周りは木々がいっぱいで、緑色の葉を優しく歌うように揺らしている。
(…ここは涼しくて、あなたが来るのを待ってるのよ。)
少し休んでいくことにした。



境内は木立に囲まれて薄暗く、蝉の声すら遠かった。
少し離れたところに石造りの水場がぽつんとある。ひしゃくが5つほど並べられていた。急に喉が渇いた。参拝前に手を清めるための水だとわかっていたけど、顔の前で両手を合わせて心の中で謝ってから、ひしゃくを1つ手にとる。
水を一杯すくって飲んだ。
体の中が、色づくように潤う。暴れまわるように荒々しかった熱が、飲めば飲むほど熱が引いていく気がした。まるで水とは違うものを飲んでるみたいだ。

少し座って休んでいけば、だいぶ調子もよくなるだろう。
水も飲ませてもらったし、お参りくらいしておこうと思って、木陰の濃くなっている拝殿のお賽銭箱の前へ行った。
お財布を開ける。中には数枚の小銭しかない。あとは親指ほどの小さな毛皮のかたまりだけ。お守りに入れていた『ウサギの足』だ。本物のウサギの脚かどうかはわからない。幼いときに友達からもらって、ずっと捨てられずに持っていた。
…ウサギが幸運を運んでくれるよ。
私には運んでくれなかったよ。
お財布の中の小銭全部と、『ウサギの足』を賽銭箱の中に放り入れた。

拝殿の裏で腰を下ろして、抱えた膝の間に顔をうずめた。
水を飲んですこしマシになったけれど、やっぱり体は重くて熱い。何故かとても寂しくなった。一度座り込んでしまうと、もう立ち上がるのさえ億劫だ。
今すぐこの場所から連れ去ってもらえるなら、体の一部を失ったっていいのに。

目を閉じて、木の葉が風に揺れる音しか聴こえなくなった。






何かに肩を突かれた。涼しい風が背中を通り抜けていく。
私、眠っていたのか…。
ゆっくりと体を起こす。辺りが暗い。
私の視界を覆うように、目の前に立って私を見下ろす人がいた。

「祭りが終わるぜ。いつまでも、こんなとこにいるもんじゃねえよ」

笑っているようで、感情のこもらない冷たい声だ。男の人だった。着物姿が、女の人かと思った…。
少し離れた先に灯りがともされていた。石行燈の中に蝋燭が立てられて、少し遠くから祭囃子の音と人が賑わう声がした。

また強い風が吹いて、男の人の着物の裾先揺れる。

「人待ちなら、他へ行け。斬るぞ」

誰も待ってない。知らない男の人が何か言っている…。遠い声のように聴こえた。私の体も自分の体じゃないように感じる。熱くて熱くて、それだけだ。

「…斬られてもかまわねえか」

顔をあげて、その人を見上げた。行燈の光が逆光になって、その人の表情は見えない。
眠っている間に水分が全て抜けてしまったように、体が強く乾いている。
またあの水を飲みたい、飲まなければ…。
地面に両手をついて立ち上がったけれど、すぐに足から力が抜ける。
私はその人に正面から倒れ込んだ。反射的にしがみついてしまうと、頬がその人の胸に触れた。心臓の音が聴こえるのに、死人のように冷たい皮膚の胸元だ。冷たくて硬い胸の中から離れてしまえない。

「晋助。何かあり申したか」

その人の後ろから別の声が聴こえた。

「遊び道具を探してたんだが…」
「何か一匹、見えるでござるよ」
「いいものを捕まえた」

私の後ろ髪を鷲掴みにして、その人はゆっくりと私を胸元から引き離した。

「見ろよ万斎。普段のとは毛色違いだ」

ひどい扱いだ。放っておいてくれてもいい。どうにでもしてくれていい。
それを伝える気力もなかった。何もかもが他人事だ。血液が皮膚の下へ溶け出してしまってるみたいに、体が焼ける。

「斬れとも離せとも言わねえのさ。俺に懐いたらしいぜ」

もう一度冷たい皮膚に戻りたかった。誰だか知らない人なのに。
不意に後ろ髪を掴んでいた手が離れる。
私はもう一度その人の胸に倒れ込んだ。


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