人魚が海を捨てる時 10




観月さんのお母さんは、小柄な可愛い人だった。
お母さんの前では、観月さんは山形の方言をごく自然に喋っていて、少し不機嫌な顔をしながら私のことを「僕のパートナー」と紹介した。
病室のベットに横たわるお母さんを、観月さんは本当に心配していた。きっと私が隣にいなかったら泣いていたと思う。観月さんの心は優しい。優しいから痛みやすい。その痛みやすい柔らかい心を恥ずかしいものだと観月さんは感じるみたいだ。
だから、自分の心を誰にも見せたがらないのかもしれない。



夏が過ぎ、秋を迎えて、冬の真ん中にやってきた。ナツコ先輩と千石さんの仲は、潮が満ちて行くようにどんどん深まって行った。
仕事終わりに、ナツコ先輩と2人でプロントへ寄った。冬に軽くお酒を飲むなら、プロントに限る。忘年会シーズンは、会社近くの居酒屋は大学生が多くてうるさすぎる。

「で、最近どうなの?ちゃんの方は」

ワインを頼んで乾杯をした直後、ナツコ先輩に真顔で言われる。

「……仕事の方は、まあそれなりに」
「観月君のことに決まってんでしょ」

私はワイングラスを一気に飲んで、それから溜め息をついた。安い赤ワインだから香りも色もどうでもいい。観月さんだったら飲みたがらないワインだろう。
私は呟いた。

「着かず離れず…というか、近寄ることも断ち切ることもできず…」
「やっぱり好きなんだ。ふうん…そっか」
「ねー。でも突き詰めると、恋愛としては相手にされてないんです。でも、今のぬるい状態から逃げる勇気はありません」
「自虐的になっちゃ駄目。でも、今だけ許してあげる」

ナツコ先輩は白ワインの入ったグラスを静かに揺らして、微笑んだ。
綺麗な人だ。ナツコ先輩は白いモヘアのセーターを着ていて、肩にかかる茶色い髪が綺麗なカールを描いている。飴細工みたいに綺麗なカールだと思う。千石さんはこの髪を触った事があるだろう。
観月さんの髪を思い出す。ナツコ先輩の髪より、もっとゆるやかなカールは天然パーマ。色もナツコ先輩のキャラメル色とは違って、夜の海みたいに黒い。観月さんは自分の話に熱中しだすと自分の前髪をいじくる癖がある。
人前で髪を触るのは下品な仕草だと、誰かにきいたことがあった。
でも、観月さんにそれはあてはまらない。
観月さんの髪をいじる仕草には幼さがあって可愛い。そのときの観月さんの得意げな表情が私は好きだ。

ナツコ先輩と話をしながら、グラスワインを3杯ずつ重ねた。
いいかげん不経済だから、とナツコ先輩がボトルを入れる。テーブルにチリ産の赤ワインが置かれたと同時に、ナツコ先輩の携帯が鳴った。
携帯を手に取って、ナツコ先輩が数秒後には真顔になる。

「千石さんからですか?」
「……うん。ちょっと、ごめん。なんか急用みたい」

珍しいな…、とナツコ先輩は呟きながら眉を寄せる。ナツコ先輩の横顔が瞬きを繰り返す。携帯画面をジッと眺めながら、考え込んでいるみたいだ。

「……ナツコ先輩」
「え?あ、ごめんごめん。気にしないで」
「どうぞ行ってあげてください。私1人でも全然呑めるので」
「でも…」
「珍しいことなんでしょう?」
「うん。そうなの」

泣き出しそうな顔で、ナツコ先輩は頷く。

「ごめんね。お会計は私が済ましとく」
「いいですって。それより急ぎなら、ほんと電車1本でも早く行ってあげたほうがいいですよ。千石さんの『急用』なんて、たぶんよっぽどでしょうし」
「…そうだよね。キヨスミ、大丈夫かな」

ナツコ先輩は手早くコートを着る。また最後に「ごめんね」と私に言って、プロントのドアを出て行った。

私はボトルをグラスに注いだ。ピクルスとレアチーズケーキ、グレープジュースを1杯だけ追加で注文する。

「飲み過ぎない。この1本で終わりにする」

呟いてから、グラスを一口で飲み干す。

自分のことで悩むのは無駄じゃない。苦しむことも先に繋がる糧になる。舞台裏で練習とリハーサルを繰り返すのと似ている。
でも、誰かのために心を痛めたり、走ったり夢中になったりすることは、すごく特別だ。それは舞台の本番を駆け抜けるような、1回きりの鮮烈な経験かもしれない。

酔いがまわってきたのが自分でわかる。考えている内容がどうにもできないことばかりを、深めていくのはその証拠だ。なのにグラスをみつめる姿勢のまま、身動きができない。

ナツコ先輩は千石さんの力になりたい。千石さんも、それを切実に望むだろう。
私は観月さんの力になりたい。でも観月さんは求めていないだろう。

他の人と比べてもどうにもなることじゃないのに、不意に悲しくなった。目頭が熱くなってきたのを、自分のために誤摩化す。白熱灯の薄暗さが視界の中でぼやけてきた。

「ピクルスとレアチーズケーキと、グレープジュースをお持ちしました」

店員さんの声が上から降ってくる。私は慌てて顔を隠しながら、バックの中からハンカチを出す。涙を、眼球から直接ハンカチに吸い取らせてから顔を上げると、店員さんは去っていた。テーブルには新しいお皿がふたつとグラスをひとつ、私のボトルとグラスの前に置かれている。
ワインボトルは、まだ半分以上残ってる。
片手でボトルを持ちあげる。手に力が入らないのが自分で分かる。
グラスにワインを半分ついで、追加注文したグレープジュースをさらに半分注ぎ足した。 一口飲んで、すぐにグラスを置く。
もう泣きたい。泣きたくない。顔を俯かせて、目をギュッと瞑る。

「邪道もいいどころですね。その注ぎ方も呑み方も」

顔を上げると、観月さんが立っていた。深緑色のコートを着ている。
観月さんだ。間違いなく私の正面にいる。
私のテーブルを見渡して、観月さんは言った。

「席に着く気が失せます。チーズケーキは、下げるか食べるか、処理してください」
「あ、はい…」

さっきまでナツコ先輩が座っていた椅子を静かに引いて、観月さんは椅子の背に脱いだコートをかける。通りかかった店員さんに、観月さんはミネラルウォーターを頼んでから腰を下ろした。
黒いハイネックのセーターを着て、店内の照明が逆光になると観月さんは影そのものみたいだ。テーブルに頬杖をついて、観月さんは溜め息をつきながら言う。

「…ハンカチを出しなさい。みっともないですよ」

気がついたら両方の目から涙がどんどん流れ出していた。観月さんは不機嫌な顔で私を睨む。そっと、人差し指と薬指をチーズケーキのお皿にあてて私の方へ押しやる。

「まったく。ナツコさんの頼みだから来てみれば、こんな事態とは」

ごめんなさい、観月さん。
ありがとうございます、ナツコ先輩。

しばらく両手でハンカチを顔に押し付けて、涙を流した。泣いても泣いても、ワインの酔いは胸の中から出て行かない。


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