人魚が海を捨てる時 11





早々に席を立たせて、さんを店の外へ出した。会計は僕が済ませて、外へ出ると店のドアの前でさんはふら付きながら待っていた。

「観月さん。…ありがとうございます」

言いながら僕に頭を下げる。顔をあげたとき、さんの眼球に涙はもうなくなっていた。でも化粧がまったくもって落ちてしまっている。ハンカチで強く顔をこすったんだろう。猫とか子供みたいに、考え無しな行動だ。

「……別に。女性に支払を持たせるほど落ちぶれていませんので」
「でも!観月さんお水1杯しか飲んでないし」
「先に手を打っただけですよ。出来の悪い後輩が泥酔する前に」
「そうですよね。後輩…ですからね」

僕が歩き出すとさんは大人しくついてきた。
夜の街は温度を低めて、車のヘッドライトと飲食店の喧騒が歩道までこぼれだしている。
僕の歩幅に比べると、彼女の歩幅は半歩分ほど短いのだけれど、さらに今日は酔っているせいか速度まで遅い。
なんとなく話しかけづらくて、しばらく二人とも無言で歩いた。

「私、観月さんの後輩なんて嫌だなぁ」

そうさんが呟いた。一瞬聞き間違えかとも思ったけれど、そうではなかった。さんの方へ顔を向けると、彼女も立ち止まる。じっと僕を見つめ返してきた。風のない夜だ。さんの眼球の表面は静かに凪いでいる。

「…観月さんはどう思う?」

さんは、どう思っているんだ?

「……そんなこと僕に言われても。しょうがないでしょう。入社した順番なんですから」
「違う。私、そういう話してるんじゃない」
「そういう話、とは?」
「ただの、私は…ただの後輩たちのうちの一人でいたくないって思ってる」
「敬語を使わないのは、主張の一環と考えてよろしいですか」
「ずるい。話を逸らした」
「逸らしてない。でも強いて言わせてもらえばですね…」

歩き出して、ビルの隙間の路地を入った。人通りが消えうせる。街灯は1本。
ビルの窓から漏れる光の中でさんと僕は向き合う。

「あの…観月さん?」

どのくらいの浅さで傷つけようか。どこまでの深さなら彼女は僕についてこれるだろう。

「僕はね。強いて言えばですよ」

さんは頷いた。

「人に物を言うのに、アルコールの勢いを借りる女性に好意は持てない」

がーん、と効果音が聞こえてきそうな表情で、さんは眉のハの字の形に下げる。でもすぐに回復した。おかしい。この破損から回復の早さは、今までのさんには観察できなかったデータだ。不穏な予感を感じさせる瞳が、強気に僕を見返した。

「私、悪くない。わざとじゃない。今日のは…その、不可抗力だし」
「…やめましょう。こういう時のこういう話は意味を成しません」
「それなら!……うちに来てください」

やっぱり今日のさんは酔っている。酔いすぎている。

「観月さん、私が酔ってると思ってるでしょ。うん、そう、酔ってるよ。酔ってるけど、でも嘘はついてない」

夜の冷気も、車の音も、通行人のざわめきも、何もかもを遠くに感じた。
さんの目が一気に水分を増す。唇をギュッと強く結んで、苦しそうに僕を見つめた。

受け入れたくない。
この世の何もかもが僕と無関係に動いてる。
誰にも干渉されず、理想どおりに生きてきた。
感情には色も香りもない。
僕には他人の心なんてわからない。
でも、さんの感情は確かに僕に触れてきて、不均等な波を起こす。

僕が努力して沈めてきた、化け物のような心の塊が、まるで今、泥の中から昔と変わらぬ姿で這い上がってくるように恐ろしい。

唇を開くけれど言葉が生まれない。笑顔を作ろうとして、頬が動かない。
さんから目を逸らして、やっと僕は声が出た。

「…なぜ?」

追い詰められている。
さんが一歩近付いて、僕の胸元に頬を寄せた。
振り払えない。さんは言う。

「今週の日曜日、うちに来て」

僕を見上げたさんと、目が合った。何か言わなければ。魚のように不自由な喉を絞って、僕は言う。

「………なぜ?」

離れろ。今すぐさんから離れろ。それができないなら、突き飛ばせ。右手を動かせ。
だらりと垂れていた右腕を、ゆっくりと持ち上げる。さんの肩を強く、押そう。

「観月さん。なぜでも何でも、来てください」

小さな声だったけれど、でも分かった。彼女の声も震えてる。
僕の右手はさんの肩を通り過ぎた。彼女の柔らかい髪に触れて、動かない。

「……わかりました」

さんが目を閉じて、溜息をつく。
僕は数回、彼女の髪を撫でた。できるだけ優しく。
それは彼女が愛おしいからではなく、自分の不安をおさめるためだ。


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