人魚が海を捨てる時 9



連休の明けた月曜日。
フロアに向かうエレベーターに乗り込もうとしたら、後ろからボスンとどつかれた。
朝から一体、誰がこんな非常識な真似を…と思いながら振り向く。

「おはよう、観月君」

声だけはにっこり微笑み混じりで、顔はちっとも笑っていないナツコさんだった。
僕はため息をついて、とりあえずエレベーターに乗って一歩右側へ避ける。空いた空間にナツコさんが立った。
僕らのフロアは8階だ。エレベーターは静かに上昇する。扉の上で1から順に点滅していく数字が5になるまで、どちらも口をひらかなかった。
6の点滅が7に移ろうとしたとき、ナツコさんは言った。

「今日、お昼にちょっと話があるわ」

7の数字が光って、数秒で消える。8の数字が光った時に僕は返事をした。

「どうぞ。構いませんよ」

扉が開いて、ナツコさんは僕を振り返りもせずにエレベーターを降りた。






ナツコさんから午前中に社内メールで昼食の店は指定されていた。
昼休みのベルが鳴る直前にかかってきた電話がほんの少し長引いて、急ぎ足で店へ向かうと、ナツコさんは先に席へついていた。
丁度グラスの水を飲んでいたところで、入って来た僕に気づくと目線だけで合図をした。
僕はナツコさんの正面の席に腰を下ろした。

「遅い」

開口一番にこれだ。ご立腹らしい。

「すいませんね。僕は千石じゃないもので、仕事とあらば女性との約束を優先したりしませんから」

多少の嫌みを含めて返すと、ナツコさんは一瞬眉根を寄せた。でもすぐに、何か気を取り直したらしくため息をついて表情をやわらげた。

「ごめん。…ちょっと八つ当たりしただけ」
「そうですか」
「先にメニュー頼んじゃおうか。観月君、好き嫌いとかある?」

いつもの彼女らしく、ゆっくりと喋りながらメニューを開く。

「特には」
「じゃあ、ロマンス定食ね。ここはこれが一番無難でおいしいから」

随分と間の抜けた名前の定食だ。呆れた気持ちでそう思っていると、ナツコさんはパタンとメニューを閉じて、それから二度目の、今度は少し長めのため息をついた。



何のことは無い、本当に普通の定食だった。

「なんでこんな普通のメニューが、ロマンス定食っていうか…知ってる?」

知るわけない。僕は初めてこの店へ来た。会社の裏にあるビジネスホテルの1階で、お世辞にも華やかとかお洒落とか、そういう今時の雰囲気は無い店だった。あまり広くない、本当に小さく地味な定食屋だ。小太りの中年女性が唯一のフロア店員らしく、メニュー受けから料理運び、空いた皿の上げ下げ、会計すべて行っていた。
ロマンス定食は、麦ご飯にみそ汁と漬け物、それから酢の物と卵焼きと、メインが鶏肉の唐揚げに中華風のあんかけだ。本当に、普通の定食だった。

「ここのご夫婦が、初めて二人で行った旅行先で、朝、食べたメニューなんだって」

僕は箸で卵焼きを二つに割って、口に入れた。美味しかった。本当に卵だけでつくってある、ふっくらと厚みのある卵焼きだ。甘めの味は、僕の実家のそれとは少し違う。

「ふうん、それで自分たちの思い出の『ロマンス』定食…なわけですか」
「うん。…ロマンスって、今時そんな言葉使わないよね」

千石と二人っきりの旅行をしてきた彼女は、どんな気持ちでそれを食べてるんだろう。
ナツコさんは酢の物を一口ずつ食べていく。箸を動かす細い指先は、とても器用で綺麗にみえた。

「どうして旅行来なかったの」
「千石から何も聞いてないんですか」

僕は千石にはっきりと理由を伝えなかった。ただ、どうしても外せない用事ができたから旅行へは行けない、と言っただけだ。

「観月君は用事ができて行けなくなった、としかね」
「その通りですよ。間違ってません、別に問題ないでしょう」
「ある」
「へえ。どこに」

ナツコさんが箸をとめて僕を見た。

「言わないとわからないような、観月君かな」
「買いかぶらないでください。さっぱりわかりません」

ナツコさんらしくないのだ。言いたいことがあるなら、はっきり言えばいい。
彼女はきっと何かを恐れて、こんな風に遠回りな質問を投げている。

「じゃあ言う。本当に、千石君に頼まれて、ちゃんと二人して仕組んだんじゃないの?本当に、観月君に何か本物の用事ができて、行くに行けなくなっただけ?」

ナツコさんは静かな声で僕に言う。
迷った。返事に詰まる。
千石に頼まれてそうしたんだ、と言えば、きっと効果的に千石を陥れることができるだろう。時間をかけずに、僕の望む結果を手に入れられる。千石なんか大嫌いだ。ナツコさんから嫌われてしまえばいいと思う。

「とは言え…」
「え?とは言え、何?」

難しい問題だ。
心の中でつぶやいて考える。僕は箸を置く。
もし、千石から頼まれたと答えたとして、その先どうなるのだろう。
…別に千石がナツコさんへの想いに破れるのは、今すぐでなくてもいいかもしれない。

「僕は、行きたくない旅行をキャンセルするために、わざわざ郷里の母親の体調を崩させて入院させるような人間に見えますか」
「え!…そう。そうだったんだ」
「ええ。一応、そこまで鬼じゃないつもりです」
「ごめん。もう大丈夫なの、お母さん」
「おかげさまで」

ナツコさんは、心配そうに僕をうかがっていた目に安堵を浮かべた。





会計を済ませて、店を出た。午後の日差しが照りつけて、ナツコさんは眩しそうに目を伏せた。歩くつま先を見つめたまま、ナツコさんは独り言のように言う。

「じゃあ、後はちゃんに確認とって終わりかな」
「千石の件ですか?」
「そう」

ナツコさんは連休の旅行が二人っきりだったことについて、千石の思惑が働いていたかどうかが相当気にかかっているようだ。
千石との間で、何かがあったんだ。まさかというか、やっぱりというか。
普段のナツコさんは、真っ白な羽で散らされた光のように、柔らかな明るさのある振る舞いをする。なのに今日は晴れない。どうにも千石に関する心配事が頭から出て行かないようだ。
彼女にとって、きっと千石との二人旅行は、手放しでの『ロマンス』ではなかった。横顔が少し不安げで、気の毒になる。

「彼女も、千石に頼まれて旅行をキャンセルしたんじゃありませんよ」
「…そうなの?」

ナツコさんは、ゆっくりと僕を見上げて言う。

「千石君から、もし私がこういう追求してきた時は、違うって言ってくれとか根回しとかされてない?」
「いいえ」
ちゃんと二人して、千石君に言い含められてるんじゃないの?」
「そこまで疑うなら…仕方ないですね。指切りしましょう」

小指をナツコさんに差し出した。

「観月君。それ、何?」
「指切りですよ」
「こんな道の真ん中よ。いくらなんでも、恥ずかしくないの」
「恥ずかしいに決まってます」

もちろん僕だって、ナツコさんが指切りを承諾すると思ってこんな申し出をしたわけじゃない。

「でも僕が千石の肩を持ってるなんて疑われるよりは、ずっとマシですからね。我慢しましょう、指切り一つくらい」

ナツコさんは少し驚いた顔をした。その後で、はあっと大きく息をついて、顔を上げた時には笑っていた。

「わかった。観月君の言うこと信じる」
「指切りしなくても?」

ナツコさんの瞳に、さっきまでの迷いのような影は消えている。

「うん。まあ、私は別に指切りしてもいいけど…私が観月君と小指を絡ませたりすると、きっと多分、この世で一人だけ、焼きもちをやく人間がいるからやめておく」
「ああ、どこぞの千石ですか」
「そう、どこぞの千石よ」

ふふっと笑ったナツコさんの目元は雄弁だった。千石のことが好きなんだと囁く声が聞こえそうな気がした。
僕は千石を単体では好きではないし、これからも好きにはならない。けれどナツコさんというフィルターを通すと嫌いにもなれないような気がした。
僕の隣を歩くナツコさんは、さんと違ってまっすぐに前を見ている。
さんは僕の方ばかり見て、山形市内を歩いて一度転びそうになっていたのを思い出した。

僕とナツコさんが指切りなんて真似をすると、焼きもちをやいてしまう人間は千石だけじゃないことを、僕はナツコさんには言わなかった。
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