人魚が海を捨てる時 7 いつもの4人で食事の折、千石が今度の連休にみんなで遠出をしようと言い出した。 僕は行き先が騒がしいところでなければどこでもいい。ナツコさんはゆっくりできるところがいいと言う。さんはというと、ご飯の美味しいところがいいそうだ。案外食い意地が張っている。 千石が良い温泉旅館を知っているので、そこへ泊まりに行こうということで話はまとまった。 食事の後は口直しだ。千石とナツコさんがタクシーに乗り込んだのを見送って、約束したとおり、さんと僕は酒を飲むだけの店に入る。 スツールに腰かけて、まず飲み物を頼もうと、とりあえずさんの方をうかがった。何を頼んでいいかわからないとか、もしくは何でもいいとか言うなら、また僕が彼女の分まで考えてやらないとならない。 「私はチャイナ・ブルーをお願いします」 そっけなく、僕の方を見ないでさんは言った。なるほど、下調べをしてきたらしい。 それでも、さりげなさを装ってるのが見て取れる。ついこの間までカクテルの名前一つ答えられなかったさんだ。迷いもせずに言える方が不自然だ。 わざと黙って、さんを見つめてみた。 「……すいません。実は、ネットでカクテルの種類を調べました」 「でしょうね」 「でも、ちゃんと中身も調べて美味しそうだなと思ったので…名前だけ拾ったわけじゃないですよ」 「いいんじゃないですか。僕には関係ないですし」 さんは僕の返事にうなだれた。俯いた横顔は硬い。 さんの前にコースターが引かれて、グラスが運ばれた。 僕が突き放すようなことを言うと、さんは傷ついた顔をする。予感はもうほとんど確信に変わった。 きっとさんは僕のことが好きだ。ささやかな重さと熱で、想いを僕に寄せている。 まあ、その予感が確信に続くものでなかったら僕だってあんな真似はしなかった。 「とりあえず、このグラスは僕がもらいます」 「え?」 さんの前に置かれていたグラスを持ち上げて、コースターを僕の前に敷きなおした。 「どうせいくつか候補をあげていたんでしょう。チャイナブルーは僕がいただきますから、君は第二候補に考えていたものでも頼んでください」 言いながら 一口飲んでみると悪くない。そう伝えるとさんは照れたように少し笑って、表情が柔らかくなる。 そうして遠慮がちに、カウンターの中へ「エル・ディアブロをお願いします」と頼んだ。 「なんだか修学旅行みたいで楽しみですね。今度の連休」 「まあ、たまにはいいかもしれません」 「え、ほんとですか」 軽く目を見開いて驚いた声で言われた。 「本当ですけど。それが何か」 文句あるのか、という意味で僕は横目でさんを睨む。さんは嬉しそうに笑って息をついた。 「観月さん、もしかしたら本当は嫌々了承してくれたのかなと思ってたんです。そのことが少し心配だったので。楽しみにしてくれてるんなら杞憂でした」 「そういう君はどうなんです」 「え?」 少し意地悪な言い方になるけれど、言ってみる。 「本心のところでは面倒くさいとでも思ったんじゃないですか?ナツコさんの手前、そういう素振りができなかっただけで」 千石とナツコさんが正式に付き合いだすのも、二人の様子からして秒読みなのは明白だった。それでもなお、ナツコさんは千石と会う時は4人でという姿勢を崩さない。相当に慎重な性格なのか、それとも本格的に心を寄せてしまいつつあるからこそ、石橋を叩き続けずにはいられないのか。 さんは言うまでもなくナツコさんと仲が良い。そのへんの事情は感づいているはずだ。 うーん、と軽く唸ってさんはグラスをコースターの上に置く。 「面倒くさくはないです。わりと楽しみというか…むしろ私の方こそ下心があるかもしれません」 「へえ。どんなです」 「千石さん達に乗じて、一緒に旅行できるのが嬉しいっていう下心です」 グラスに視線を落としたままさんは言う。僕も正面を見つめたままでいる。 さんの今の言葉に僕への好意が含まれていることくらい、わかっていた。わからなかったら、相当の鈍感か、ただの馬鹿だ。 溜息が出た。 さんは一体僕のどのあたりをつかまえて、そんな気持ちになってしまったんだろう。不思議に思う。やっぱりあの日、口付けてしまったのが決定打なのか。 キス一つくらいで、恋なんてしないほうがいい。 さんにとっても僕にとっても、つまらない時間の無駄が始まるだけだ。僕は身をもってそのことを知っているんだから、さんにも言うべきだろう。 でも当分の間は言えそうになかった。 だってさんが僕に寄せる気持ちの、その寄せ加減は心地良い。 冷たい海へ降る暖かな雨のように、いくつもの小さな波紋を広げて胸の中に満ちていく。 「あの、観月さん」 「なんでしょう」 「変なこと言ってすいません」 僕が黙り込んでいたのを心配したのか、さんは僕をまっすぐに見つめて言った。 「さっき私の言ったこと、気にしないでください。別に夜這いしたりはしませんから」 「は?」 「観月さんのことを、夜に乗じて襲ったりしません」 好きです、と言われるより生々しく、わかりやすい宣言に胸が小さく鳴る。 「別に夜這いにきてくれて構いませんよ。むしろ僕が、君を襲い返すだけの話ですから」 「え!それは…」 「それは?」 「願ったり叶ったり」 「馬鹿ですね、君は」 もちろん冗談だったので二人して笑った。 後になって考えたら、随分くだらないやりとりをしたものだと思う。 でも、お互いに友情程度の気持ちなら口には出せない類の冗談だったはずだ。少なくとも僕は確実に。 連休を目前にした木曜日。午前中に携帯電話へ何度かしつこく着信があった。 着信履歴を見る限り、見慣れない番号だったけれど、市外局番が実家のそれと同じだったので気になった。 昼休みに外へ食事を出るついでに、コールバックをしてみる。エレベータを下りてから、表示された番号へ電話をかけてみた。 通話を切った後、僕はそれほど動揺していたつもりはなかった。ただ、考えていただけだ。 「観月さん」 後ろから声をかけられて、振り返る。 「ああ。…さん」 「大丈夫ですか?」 「何がです」 「こんな入り口に突っ立ってるので」 「……電話で、ちょっと話をしていたんです」 「あ、そうなんですか」 同僚や他のフロアの社員達がどんどん僕の傍を通り過ぎていく。早く僕も食事に行かなければと思う。 誰も立ち止まらない中で、さんだけが僕を見つめて、馬鹿みたいに僕の様子を気にして足止めを食らっていた。 「なんだか観月さんの様子が気になったので、呼んでしまいました。それだけです」 「ああ…そうですか」 「後姿しか見えてなかったのに、変な話ですよね」 「ええ、まあ」 自分でもわかるほど生返事しか出てこない。さんは困ったように首を小さくかしげながら言った。 「じゃ、じゃあ、これで。もし何かあって、私に何かできることがあったら言ってください」 さんは手に持っていた財布をポンと叩いて、それから歩き出す。真昼の日差しに照らされて、さんが遠ざかる。女の人にしては少し大きめの歩幅だ。あと数秒も見送れば随分遠くへ歩いていってしまうだろう。 「さん!」 はたとさんが立ち止まった。呼び止めたものの何と言うべきか、言葉に詰まる。 僕が黙ったままでいるとさんの方が戻ってきてくれた。急げとも言ってないのにわざわざ走って。 正面に立ってさんが僕を見る。呼びつけられたのに不愉快そうな顔ひとつしていない。馬鹿な人だ。 「あの、今度の連休なんですが」 「はい」 「僕は行けなくなりました。…君も行けなくなってください」 さんはあっけにとられて口をポカンと開けている。唐突だとは思ったけれど話を切り出した。 「実家に帰省する用事ができたんです。君も来てくれませんか」 「あの、それって」 「温泉の方へ行きたいのなら結構です。無理にとは言いません」 「な!行きます。私、行けますから!」 「どっちにですか。千石とナツコさんの方ですか」 「観月さんの方にです。私、行けます」 「別に頼んでませんよ、是が非にとはね」 さんは一瞬顔に疑問符を浮かべて、首を捻った。でもすぐに息を吸うと、そのまま勢い込んで言う。 「じゃあ私が頼みます。帰省するんなら、是が非にでも一緒に行かせてください!」 僕は僕で千石に断りを入れておく。だからさんはナツコさんに適当な言い訳をつけてキャンセルの話をしておくように言いつけて、その場は別れた。 そうして連休初日、朝7時の駅で僕はさんを待っている。新幹線のチケット往復分は僕が用意した。 さんは相当恐縮していたけれど、本当はこれでも安いくらいだった。 さんの気持ちを知った上で、自分の都合に付き合わせる。もしかせずとも最低だろう。 |