人魚が海を捨てるとき 6




全部話し終わるまでの間に、観月さんはそこそこグラスを重ねた。

「それで全部ですか」
「はい」
「…さん。僕の方を向いて、もう少し顔を近づけてくれますか」

どうして、と思ったけれど、大人しく従う。観月さんがスッと右手を上げて、私の顔の前に持ってきた。

「あいた!」

額を、人差し指で弾かれた。

「み、観月さん…痛いです」
「ええ。痛くしましたから」
「どうしてデコピンなんか」
「千石の時はペリエを引っかけてやったんですけどね。君は一応女性ですから」

観月さんは額を押さえる私の手をどけた。触れた指先は冷たくて気持ちいい。

「赤くなってますよ」
「そりゃあ、痛いですから。ほんとに」
「自業自得です。いい年齢をした大人の無知と愚かさは、罪と同義。少なくとも僕の中では」

言いながら、観月さんは少し機嫌がよくなっているのか唇の端と目元が笑っていた。

「あの、私の話のどのあたりが…無知で愚かなんでしょう」
「わかりませんか」
「はい。ご説明いただけると、とても助かります」
「報酬のない講義はしない主義なんですけどねえ、僕」

観月さんはカウンターに頬杖をつく。

「あ!それなら、ここの払いはもちろん私が」
「冗談です。じゃあ、こうしましょう。次の食事会の後も、こうして口直しの一杯に付き合ってください」
「次?」
「ええ。次です。とりあえず今日のところはもうお開きで。君の無知と愚かさについては帰り道にお話します」

少しフラリとしながらも、観月さんは足音を立てずにスツールから下りた。





「そもそも君、ナツコさんのことをわかってませんよ」

それはショックだ。観月さんは言う。

「彼女が本当に千石を恋愛対象として観てないのなら、最初の誘いはともかく、それ以降の食事の誘いに乗ると思いますか」
「そ、それは…でも千石さんが、あれだけ押してくるので、仕方なく」
「相手の押しの強さなんて関係ありません。ナツコさんの方にも千石に対して何かしら感ずる部分があるんですよ。理屈抜きの本能、なんて言うと月並みな言い方になりますが」
「でででも、それじゃあどうして毎回観月さんに、ついてきてもらいたがるのか」
「そこが彼女の賢さですよ。千石みたいな男をきちんと見極めようと思ったら、二人きりの時間だけじゃ不完全です。二人きりの密な空気でしか見えないものと同じだけ、第三者を交えた空間の中でだけしか見えてこない本性もあります。ナツコさんはまさにそれを知りたいんでしょう」

歩きながら、渡ろうとした先の信号の青が点滅する。観月さんはピタリと足を止めて、渡らなかった。

「観月さん。でもそれじゃあ、ナツコ先輩がどうして観月さんをわざわざ指名するのかは」
「僕と千石の、仲が良くないからでしょうね」
「はい?」

夜もそこそこ時間が遅いけれど、車の通りは少なくない。目の前の車道を車が駆け抜けるたびに風が吹いて、観月さんの前髪をふわっと揺らした。観月さんは浮き上がった前髪を、片手で軽く整える。

「千石っていうのは不思議な男でね。本当に人当たりがいいんです。たいていの奴は、一緒にいるとあいつの味方になってしまう。別にそれはいいんですが、ナツコさんにとっては良くないんでしょう」

首を捻った。千石さんの近くにいる人が、千石さんの味方になってしまったらナツコ先輩には都合が悪い?

「いいですか。自分達以外の人間がいる空間の中で千石がどんな本性を垣間見せるか、それを知るためにわざわざ食事に第三者を招いたわけです。その招いた第三者が、千石に懐柔されて、千石と裏で調子をあわせた行動しかとらない奴だったらどうします。ナツコさんの知りたい千石は見えてこないでしょう」
「それは…確かに」
「だから僕がいいんですよ。千石の方がどう思っているかはともかく、少なくとも僕は奴が大嫌いですからね。千石の意図と目論見にあった行動なんてとってやるつもりは、さらさらありません」
「あ」
「どうしました?」
「いいえ」

そう言えば、さっきのお店の中でも観月さんは千石さんにペリエをひっかけたと言っていた。それは冗談じゃないらしい。こうして今はっきりと、千石さんのことを嫌いだと言い切った。

一体二人の間に何が、と考え込もうとして視線を感じたので横を見る。観月さんが私を見下ろしていた。

「気になったことがあるんなら、言ってくれて構いませんが」
「あ、えーと」
「『えーと』。はいそうですか。君の気持ちはわかりました」
「わわわちょっと待ってください。言います、言います。観月さんが千石さんのことを嫌いなのはどうしてかなあと考えていました!ほんとです!」
「…それについては、またいずれ」

言わせておいてずるい。信号が青になったので歩き出す。
渡った先に、丁度私の乗る地下鉄への降り口があった。観月さんにそう言うと、ああ、と少し気の抜けたような声で返事をする。

「じゃあ、気をつけて」
「はい、観月さんも。いい週末を」
「君こそ」

観月さんは少し笑ってくれた。
地下鉄の入り口に取り付けられた蛍光灯の光が、私と観月さんを照らす。こんなに弱々しくて、くすんだ青白い光の中だけど、今は私を見てくれていた。
観月さんの瞳は、いつも水を満たしたように濡れている。だから見つめられると、胸の奥へひとしずくずつ何かが満ちてくるように感じるんだろう。
そうしていっそ、その中に閉じ込められてしまいたくなるんだろうか。

私の渡したメモ用紙を燃やした時の観月さんを思った。
暖かい橙色の炎の中に浮かんだ観月さんの横顔なのに、見つめていて、はっきりと寂しくなった。とても遠くて、届かない。隣にいることすら忘れられていた時間を思い出すと、胸が痛む。

踵を返して、歩き出そうとした観月さんの背中に思わず声をかけてしまった。

「あの!」

観月さんが首だけ振り返る。

「約束が守られないのが前提で」
「はい?」

怪訝そうに、観月さんが眉をひそめた。構わず言葉を続ける。

「だから私との約束も無意味だっていうなら、観月さんとはちゃんと約束なんかしないって、約束します」
「…言ってることが、矛盾してますけど」
「あとそれと、基本的には私も短気ですけど、でも待とうと思えば、ちゃんと待てます。だから待ちます」
「…何の話か、わかりませんね」

わからなくてもいい。私がただ、観月さんに伝えたいだけだ。

「私は観月さんの、嘘も隠し事も嫌いじゃないですから」

言い終わった後、しばらく間があった。観月さんがゆっくりとこっちへ歩いてきた。お店での話を蒸し返してるのを悟られて、怒っているのかもしれない。
表情を殺した顔で目の前に立たれる。私の耳元に唇を寄せて、観月さんは言った。


「…嫌いじゃないなら、好きでもないくせに」


そんなことは、と言いかけて、今度は唇で唇を塞がれた。 そうしてすぐに離れる。


「冗談です。また、来週」


触れた観月さんの唇も、間近で見つめた瞳も、夜の海みたいに冷たかった。






翌週、給湯室から廊下に出たところで、ちょうとナツコ先輩と観月さんが立ち話しているところに出くわした。
観月さんが私を指差してナツコ先輩に教える。
カツカツカツとヒール音高らかに近寄ってきたナツコ先輩に、5発連続でデコピンをされた。

「私が観月君なんか好きなわけないでしょう!あんな腹黒そうなサディスト、お断りよ!」
「え、じゃあやっぱり千石さんを…」

ナツコ先輩は、ハタと口をつぐんだ。

「まあ…奴はさ。なんていうか、一家に一台は、置いてもいいんじゃないかなーっていう程度かな」
「え、まさか」
「いやいや、ほんとその程度よ。ほら、何ていうかさ。一台くらいなら置いても邪魔にならないじゃない?」
「私は、その一台すら特にいりませんけど」

沈黙がおちた。ナツコ先輩が罰の悪い顔をするのは、とても珍しい。

「やっぱり、そう思っちゃう時点で…私、アウト?」
「ですね…」
「ああもう嫌ー!観月君のこと好きと思われるより最悪ー!事実なだけに救われないー!」


壁を叩いて苦悩するナツコ先輩が、なんだか可愛くて微笑ましい。千石さんの想いが通じてよかった。
そう思いながら、気づく。

ということは、もう、焼肉会は開かれる必要は無くなってしまうんだろうか。

視線をさまよわせたところで、廊下の先にいる観月さんと目が合った。
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