人魚が海を捨てるとき  5





さんの様子が妙だと最初に感じたのは、その日の食事会が始まって5分もしないうちだった。

「観月さん、もうこのお肉焼き加減いいころだと思いますので、どうぞ」

ありえない台詞だ。これまでの焼肉だらけの食事会の中で、さんが僕の指摘よりも早く気を回してくるなんてありえないことだった。とても不自然だと思う。
何かおかしい。
それとなく、様子をうかがうことにした。

「あ、なんだかお肉の種類少し偏ってますね。もうすこし、他のもの乗せますので」
「野菜、追加しましょうか。ピーマン、茄子とか、まだ頼んでませんよね」
「何か追加しましょうか。なければ飲み物でも。私はもう十分なんですけど、もし観月さんにあれば」

僕の先読みをするようなさんの気遣いぶりは、違和感の塊だった。端的に言って居心地が悪い。
という人間の存在を嫌でも感じずにいられないほどだった。

千石の馬鹿話に耳を傾けたり、ナツコさんとテーブル越しに会話を交わすさんの様子を観察する。目元がぎこちない。だいたい、控えめに笑うなんて彼女にはとても似合わない芸当だ。
非常識な声の大きさではないにしろ、わりとあけっぴろげに、「ああ、楽しいんだろうな」と見て取れるような笑い方をするのが、僕の知る限りのだった。
可もなく不可もなく、だった彼女は今間違いなく、不可の領域に傾いてる。
そのことが、まるで石を飲み込んでしまったように僕に具合の悪い思いをさせる。

千石のことは気に食わないにしろ、そこそこ僕にとって悪くない時間だったはずの焼肉会だ。
それが初めて、酒の味も楽しめないまま終わった。



定例どおり、ナツコさんを送って帰るという千石たちと店の前で別れた。
本当に家まで送ってるんだかいないんだか。そろそろ彼らも知り合って時間が経った。どうせ途中、千石は仮宿に連れ込もうとして、ナツコさんがそれを許すかどうかってとこだろう。
勝手にやってくれ。


「観月さん」

タクシーに乗った二人を見送った後、さんが僕に向き直って言った。
ああ、さんが僕を見た。今日初めて、さんがまともに僕の目を見てものを言ったと、頭の隅で考える。

「…なんでしょう」
「少しだけ、どこかでお話できますか」
「立ち話では不都合でも」
「あ…ええと。不都合、ないです」

すすっと目線が泳いだので、不都合なんだなとわかる。

「わかりました、いいでしょう。ご指定のお店はありますか?」

ありません、とさんは答えた。千石が初めて僕を連れて行った、あの店にしようかと考える。僕にだって行きつけの店がないわけじゃないけれど、仕事外の領域に他人を踏み込ませるのは不本意だ。でも、二番煎じを平気で演じるような自分は、それよりもっと許せない。

「じゃあ、僕の行く店でよければ」

歩き出した僕の隣じゃなく、斜め後ろをさんはささやかな足音でついてくる。






席につくなり、彼女はバックの中を漁りだした。
店内が薄暗いので目当てのものがみつからないのか、グズグズと、かつ、ガサガサと、僕の方まで落ち着かなくなる。バーテンダーは、僕が注文を告げるのをカウンターの中で待っている。もちろん決まっていた。でも、恋人ではないにしろ、連れてきた女性を差し置いて自分の分だけ先に頼むのは無作法だと思う。
なので、僕はさんを待っていた。

「ちゃんと持ってきたはずなのに…もしかして…ああ、あった」

さんがバックの中から取り出したのは、小さな1枚のメモ用紙だ。

「それは良かった。で、飲み物はどうします」
「あ、すいません。…メニューとか」
「ありませんよ。飲みたいお酒の名前も、君は持ってないんですか」

僕が多少きつい物言いをしても、妙な柔らかさで衝撃吸収してしまうさんのはずだった。
それなのにまるで傷つけられたみたいに言葉を詰まらせてしまう。何がなんだか、今日のさんは扱いづらい。

「いいです。僕が頼みますから。彼女にはプースカフェ、僕にはフレンチ75でお願いします」

さんは僕に頭を下げて、聞き取れないほどの声で礼を言った。

明日は休み。せっついて話をする必要もないだろう。グラスが揃ったところで、軽くあわせて乾杯をする。
さんはグラスに見入って、なかなか飲もうとしない。プースカフェのグラスはいくつかの色が綺麗な層を作るので、目で見てわかりやすく楽しめる。今夜のさんのように、わかりやすく様子のおかしい人の気を、わかりやすく底上げできると思った僕の見立ては間違っていなかった。

「飲まないんですか」
「飲みます。でも、観月さん。ありがとうございます」
「何が」
「色が重なってて、とても綺麗ですね。すぐに飲んだら勿体ないような気がします」

グラスに視線を落としたままさんは微笑む。ああ、今日初めてさんが笑ったなと思う。

「でも、飲んだ方がいいですよ。酔った方が込み入った話はしやすいですから」

さんが、顔ごと僕に向けた。

「ど、どうしてわかりますか」
「さあ。どうしてでしょうね」
「私が訊きたいです」
「僕にもわかりません」

冗談めかして少し笑ってみせる。さんはさっきよりもっと表情を和らげて微笑んで、僕も同じように笑い返す。
でもどうせ、込み入った話に決まってるんだ。もしくは、僕に話すのに込み入った決心が必要な話。
立ち話が不都合な素振りを見せられたり、入った店でわざわざバックの中に忍ばせていたらしいメモ用紙を取り出したりされてみろ。一言二言で済む話じゃないことくらい、僕じゃなくても簡単に読み取れる。

「観月さん。また近いうちに、千石さんはナツコ先輩を誘いますよね」
「ベットにですか」
「な!そうじゃなくて」
「冗談です。今夜のような、お決まりの食事会にですか」

さんは頷く。

「それで…その時には多分、観月さんも誘われますよね」
「ナツコさんから解放命令がくだらない限りは、そうなるでしょうね。もちろん、君も道連れですが」

千石には口が裂けても言わないけれど、会社絡みの飲み会に比べたら、ずっと退屈はしないから悪くない会合だと思っていた。ありがちな男女二人ずつの組み合わせなのに、合コンのような低俗さが漂わない。それは、ナツコさん以外眼中にないようでいて、きちんと周囲にも気を配っている千石の周到さと、ナツコさんの場が悪くならない程度に千石をあしらいつつ、それなりに相手もしてやっている雰囲気の取り持ち具合が大きい。

そうして、そんな微妙なバランスの空気を、深読みしないまま素直に受け取ってるさんが、最適の緩和材だ。僕の隣にいても必要以上の気を利かせることなく、細かいことを指摘されても感心したように笑って礼を言う。
その場にいる特別な意味合いを持たないこと自体が、彼女のいる意味だった。

「その件なんです」

声のトーンが、硬くなった。さんは僕の方へ、さっきバックの中から取り出したメモ用紙を滑らせてくる。
手にとると、5人ほど名前が書かれていた。横にはカッコ付きでその人の所属しているらしい部署名だ。

「もし、次があるとして…私、行けないので。なのでナツコ先輩と仲が良くて、観月さんの気にも触らなさそうな人をご紹介しておきます。みなさん、ナツコ先輩ほどじゃないですけど素敵な人なので」
「…何のつもりですか」

自分で思った以上に、不機嫌な声が出た。

「僕に、この中から気に入った奴を選べと。そういう指図をしたいわけですか」
「…そういうわけじゃありません」
「じゃあなんです。こんな他部署の女性の名前だけ寄越してきて、僕にどうしろっていうんです」
「だから、次の食事会があった時は、その中の誰かを」

さんは、僕にこの中から誰か自分の代わりを選べという。そんなものは

「君が来ればいい」
「……いや、私は行けないので」
「何故です。少なく見積もっても、1週間は先の話ですよ」
「ええと、どうにも都合が」
「調整すればいい」
「ええと、その…調整できない用事で」
「へえ。一体どんな」
「…えー…ええと。とても…のっぴきならないような、そういう感じの」

歯切れの悪い物言いをされるのは、昔から大嫌いだ。その内容が僕の意に逆らおうとするものであればなおさら。
こういう相手には、逆らうだけ無駄だと負けを認めさせないと話が進まない。
グラスに口をつけて、二口三口と大目に流し込んだ。さんも僕の様子をうかがって、遠慮がちにグラスを口元に持っていった。プースカフェの綺麗な縞模様が、グラスの中で層を保ったままゆらりと傾く。

「話の焦点を変えましょう。どうしてそんなにピンチヒッターを立てたがるんです」
「ピンチヒッターというか。もうそっくりそのまま、トレードしてほしいんです」
「……さん。君を観察していて、気づいたことを教えてさしあげましょうか」

グラスを置いて、スツールに腰掛けた上半身を少し捻ってさんの方へ体を向けた。

「ええと、ええと」

棒読みで僕がそう言うと、さんは眉を左右違いに不恰好に歪めて、不思議そうな顔をした。

「君がこの無意味な間投詞を冒頭に持ってくるときは、言い逃れをしようとしている時だ」

違いますか、と念押しをする。さんは目を見開いて、首すら振らずに僕を凝視する。
そんな風にまっすぐ僕から視線を外せないのは、僕の指摘が間違っていないからだろう。
それにしても、僕は自惚れ強い性分ではないつもりだけど、何か気持ちを込めて見つめられているようにすら感じてしまう。今夜の食事の間中、逸らされていたからか。

僕に注がれるさんの視線は、心の奥にほんの少し絡み付いてくるようだ。
更に逃げ道を塞いで追い詰めれば、もっと強く僕を見つめてくるんだろうか。

「君には都合のつかない、日程調整もできない、のっぴきならない用事なんてない。ただ食事会に行きたくないだけだ。そのくせ自分の代役は立てたがる。ナツコさんや千石のいない場所で、わざわざ僕に選択肢を与えてまでね。ずるいんじゃありませんか。ここまでやっておきながら、真意を伏せようとするなんで卑怯でしょう。何も言わず踊らされてやるほど、僕は優しい男じゃありませんよ」

息をのんで、さんが色を失う。青ざめた表情のまま唾を飲み込んで、その後で唇を開いた。

「…でも、言えないんです。私が勝手に、推測してるだけの話なので」
「でもその推測を信じてるから、君は僕に理由を言えない」
「時間がもう少し経ったら、話せるようになります」

さんは必死だ。頬を撫でてみたくなるほど、余裕ない顔で僕を見つめる。
もう少し様子をみて満足したら、今回のところは僕が折れてやってもいいかもしれない。

「だからお願いします。もう少し時間が経つのを待ってください」
「もう少しとは言ってもね」
「そう先延ばしにはしません。必ず観月さんには理由をお話します。約束しますから」

約束する、とその一言さえ言わなければ僕も意地になったりしなかった。

もう何年前になるかも思い出せないのに、あの時の口調は今でも耳の奥に聞こえてくる。僕以外の奴に心は動かないと約束する。そう言ったのと同じ声で、きっと千石に恋を囁いた。
満ちていたはずの潮が、一瞬で流れを変えて引いていく。

「女性との約束は、守られないのが前提です。約束それ自体が、無意味だ」
「…私の言う約束なんか、信じないっていうことですか」
「平たく言えばね。それと」

カウンターの上に置かれた、灰皿とマッチを手元に引き寄せた。さんのクセの強い文字が連なるメモ用紙を灰皿の上に乗せて、擦ったマッチの火を移す。
一瞬炎が燃え上がる。打ち寄せる波が砂浜に書かれた文字を消すよりも幾分か遅い。けれども確実に、メモ用紙は焼かれて灰になっていく。

いつの間にか、さんから視線を外して僕は燃え落ちていくメモだけを見つめていた。そのことに気づいて、視線をさんに戻すと、さんはずっと僕を見つめていたらしくすぐに視線が合わさった。

「僕、喋り口調がこんな風なので誤解されがちなんですけど」

さんは首を傾げる。なんだか悲しそうに僕を見る。

「気は長い方じゃないんです。だから待ちません」
「…はい」
「全部話して下さい。差しつかえある範囲だろうと、そうでなかろうと全部」

グラスを手にとって、中身を一気に飲み干した。本当は、こんな風に飲むのは僕の性には合わないのに。

「僕は、女性の嘘と隠し事が嫌いです」


さんは、しばらく僕を見つめたまま視線を外さなかった。
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