人魚が海を捨てる時 3





ペリエを額からしたたらせて、千石は目を丸くしていた。
僕は溜息を一つついてから、空になったグラスをカウンターに置く。

この千石清純…僕が知る人間の中で、文句なしに一番愚かで僕の気を逆撫でしてやまない男だ。
どうしてこの年になってまで、僕はこいつと関わらないといけないのだろう。

「…うちの社長の名字、ご存知ですか」
「え?」
「彼女の名字は社長の名字と同じなんです」

日常的に社長の名字を呼び捨てにしたり、気安く呼ぶのははばかられるので
僕の部署の人間のほとんどは、彼女を社長と区別する意味で、彼女を下の名前で呼んでいた。
だから別に僕と彼女の仲が特別良いとか、そういう深い事情では全く無い。


そのことを説明すると、千石は見るも無残なほど表情を崩して安堵の溜息を大袈裟についた。

「なあーんだ…そっか、そうなのか。…やー、俺安心しちゃった!」
「ああそうですか」

それはそれは、全く羨ましいほど単純なことで。

「うん!よーうし、それじゃあ心置きなく俺は観月君に恋のキューッピッドを頼めるね!宜しく頼むよ!」
「お断りします」

どうして?と、千石はすがるような顔を僕に向けてくる。

どうしても糞もないだろう。僕はお前が嫌いなんだよ。だから協力なんて絶対にしない。
でも、この本音を思い知らせれば、ここから更に話が長引くのは明白だ。
だから建前だけの返事をした。

「あのですね、千石君」
「うん」
「君は伊達に恋愛経験を重ねてきたわけではないんでしょう。僕のシナリオなんて必要ないと思います。
  君は君のやり方で、君一人の力でぶつかっていくことが、きっと一番の近道ですよ」

言いながら、僕は心の中で思う。

そうして恋の荒海に突き落とされて、溺れ死んでしまえばいい。
すがりつけるものもないまま、海の底へ引きずりこまれろ。
抗う体力も気力を失って、呼吸もできないほどの苦しさをお前も知るべきなんだよ。
そうなって初めて、きっと僕は君の事を安らかな気持ちで見つめることができる気がする。



千石は目を見開いてしばらく呆けていたけど、ふっと笑顔を浮かべて言った。

「ありがとう観月君。俺、頑張るよ。ナツコか…ナツコちゃん…なっちゃんのハートを奪ってみせる!」
「ええ頑張ってください。じゃあ僕はこれで」

どうか是非、ナツコさんにも頑張ってほしい。
千石なんかに心を奪われることのないよう、せいぜいしっかりと防御を張り巡らせておいてくださいね。







そういう経緯があった僕と千石の、あの再会から数週間後、
こうしてやっと今、千石は愛しのナツコさんと対面を果たせたわけだ。
二人の待ち合わせ場所に指定されていたところに、僕一人だけで様子見に行くと不便なこともあるから
とりあえずナツコさんを先輩として慕うさんを同席させてみた。
実際、僕を千石の位置から見えなくするべく店内の植木を動かすということで、役に立った。


ハラハラしながら、さんはナツコさんと千石の動向を窺っている。愚かだと思う。
他人の恋愛なんて、第三者が心配したところで無駄以外の何者でもないのに。
でも、第三者の介入が意味をなす場合もある。第三者がその恋愛の主役になりかわろうとする時だ。
いつかの千石がそうだった。
舞台袖から僕と彼女を傍観しているだけの存在だと思っていたのに…本当に突然だった。
ああも手際良く僕は奴に舞台から蹴落とされて、グシャリと潰れたマリオネットのように動けなかったっけ。
まあ、昔のことだけど。別に今更どうでもいい。過ぎたことなんだ。

それはさておき…これで、もしさんが千石のことを好きになったりしたら面白い。

千石がナツコさんの相談をさんに持ちかけて、さんは千石に頼られることで情がわいてしまう。
まあそうなると、苦しいのは千石よりもナツコさんだろうけど、それは千石なんかに好かれてしまった不幸。
千石自身は幸運に恵まれた男かもしれないけど、それは他人にアンラッキーを運んでる結果でもあるんだと
そっとナツコさんに教えてあげることは、親切なのか意地悪なのか…どっちでもいいか、そんなことは。

30分もしたところで、千石とナツコさんは席を立った。
支払いはそつなく千石が払って、ナツコさんは憮然とした表情を浮かべながら二人は店をあとにしたので
僕達も、この短い偵察を終わることにした。

あとは野となれ山となれ。千石の息絶えた恋心が砂浜へ打ち上げられたら、僕が墓標をたててあげよう。









「観月さん、観月さん」


そろそろ退社時間だなと思いながら、先方からもらった電子メールの返信文章を打っていたら
そっと声をかけられた。 振り向くと、僕を呼んだ声の主はさんだ。
なんだか罰の悪そうな顔をしている。

「なにか用ですか」
「はい、用があります」
「なんでしょう」
「…今夜、食事に行くそうなので行きましょう」
「はい?」

要領を得ない誘い文句に、思わず首をかしげた。
と、そこへカツカツとヒールの音を響かせてナツコさんがやってきて
さんは何だかいたずらがバレた子供のように、ほんの少し身を縮ませる。

「そういうわけよ、観月君。今夜、この後付き合ってもらうからね」
「だから、なんの話でしょう」
「千石清純と、食事に行くのよ。この前みたいに離れた席で見守ってくれるより、同席したらいいじゃない」

…ばれていたのか。

でしょう?と、隣のさんにナツコさんは同意を振って、さんはうなだれて「はい」と返事をする。
こうなったら仕方がない。行くしかなさそうだ。
僕が了承の返事をすると、ナツコさんは賢そうな瞳を細めてニコリと笑った。

彼女はなかなか手強い女性だ。 おおよそ、千石なんかの手に負えるわけがない。


店は彼女の指定で焼肉屋とのことだった。
退社後、左から僕、さん、ナツコさんの順に並んで歩きながら店へ向かう道すがら、ナツコさんが言う。

「もちろんお勘定はあの人持ちだから。飲み放題食べ放題のつもりでどうぞ」
「あの人って誰です」
「千石に決まってるでしょう」
「おや、名字を呼び捨てですか。キヨスミ、とか呼んでやればいいのに。
  どうせ彼からもそう言われてるんでしょう。自分のこともどうせなら下の名前で呼んで欲しいと」

ナツコさんは返事をしなかった。どうやら当たっていたらしい。
…相変わらず、ベタなところから距離を詰めていこうってわけかい千石。


間に挟まれたさんが、僕とナツコさんの表情を代わる代わる窺いながら不安そうな瞳を向けてくる。
なので、その視線が僕にむけられた時、軽く微笑みかけてやった。

さんはびっくりしたように目を軽く見開いて、それから頬に手をあててうつむいてしまう。



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