人魚が海を捨てる時  2





あの二人、どうなるのか本当に楽しみだ。
くっつこうがくっつくまいが、そんなことはどっちだって構わないし、僕には関係ない。
ただ知りたい。
あの男がどんな風にして心奪われた女を口説いてものにするのか。
そうして、手と言葉をつくしてもそれが万一叶わなかった時…どんな顔で落胆してくれるのか。


心なしか緊張した面持ちで彼女と対面している奴を眺めながら、
学生時代の登場人物の一人で終わったはずの奴が、僕の世界にもう一度現れた日のことを思い出す。







それまでの担当者から転勤になるという電話をもらって、次の新しい担当者の名前を聞いたとき
もしかしてという予感はあった。

まあ、ほとんど確信に近い悪寒でもあったけれど。

人当たりのいい、それも『女性に対しては特に』。よく言えばフェミニスト悪く言って女たらし。
でもヘラヘラしてるだけかと思えば、自分の力を使うべき場面では、十分に発揮できる…
決定打は、何かにつけて運が良い奴だと聞いた時で、間違いなくあの男なんだと僕は確信した。

千石清純だ。

彼は僕の癇に障る。

電話の終わりに、その新しい担当者・千石を僕のところへ顔合わせの挨拶に行かせたいと言われて
朝から出張の入っている日を迷わず指定したのは言うまでも無い。




そうして、完璧に第一回目の対面を先延ばしにすることができた僕は
退社後のエレベーターの中で、たまたま一緒になった彼女に礼を言った。


「今日はすいませんでした。ナツコさん」
「ん、なにが?」
「僕の代わりに、Y代理店の新しい担当者の応対をしていただいたことです」

ああ、と少し思いをめぐらす仕草をした後、彼女はバッサリ言い捨てた。

「…ほんと重労働だった」
「すいません」
「いや、単に私があの手の男が苦手っていうか嫌いってだけで…観月君のせいじゃないわ」
「…そう言ってもらえると気が楽になります」

やっぱり彼女は、利発で物を知っている女性だ。

少し感心した気持ちで彼女の横顔を眺めて
その後は連絡事項的な話をしているうちにエレベーターは1階に着く。
この後早速、目当ての物を買いに行くという彼女と僕の帰る方向は真逆だったので
建物を出たところで別れた。

そうして、数メートル歩いたところで後ろから声がかかる。


「みーづきくん!」


自分でも完璧だとわかる無視で、立ち止まらずに歩くスピードをそれとなく速めると
いつの間に距離を縮めてきたのか、肩を馴れ馴れしく叩かれた。

…仕方ないので振り返る。

「…どちら様ですか」
「やだなあ、データマンだった観月君が俺のこと忘れちゃったの?俺だってば、千石清純!」
「すいません、必要の無いデータは、即刻消去する主義なんで」
「……まあ、細かいことは別にいいや!それはそうと、ちょっと訊きたいことがあってさ。
  今から時間、いいよね?」
「よくありません、これでも急いでるんですよ。なので失礼します」


肩に置かれていた手を、無礼に見られない程度に払い落とすと踵を返して歩き出した。


何一つ変わってない。相変わらず、見てるだけで僕の神経を逆撫でする男…
どうして社会人になってまで、僕があんな男と関わりを持たなくちゃならない。
ふざけるな。

僅かな距離でもあいつから遠ざかるために、走り出したいのを堪えながら最大限の早さで歩く。



その時、千石がわざとらしい大きな声で後ろから言葉をぶつけてきた。

 「もしかして、まーだあの事、怒ってんの?
   俺が観月君の彼女を横取りしたとか何とかってやつ」


僕の隣を歩いていた中年の女性が、千石の大声とおそらくはその内容にびっくりして振り返る。
僕自身も、一瞬で怒りが体を巡って足が止まる。

明らかな挑発なんて聞き流して、歩き去ってしまえばいいと思うのに
抑えるのも精一杯に膨れ上がった怒りが、まるで恐怖のように膝を震わせて動けない。

今すぐ殴り倒してやりたい。
二度と下らない軽口を叩けないように顔中を切り刻んでやりたい。

そういうことばかりが頭に浮かんで、手を握り締めながら必死に冷静さを取り戻そうとしている間に
もう一度、肩にそっと手を置かれた。

僕の斜め後ろに立った千石が、周りには聴こえないだろう低い声で言う。


「観月君ってさあ、テニスもそうだったけど…何にしても根深すぎるんじゃない?」
「……その根深い僕に、何か用でもおありですか」
「うん…ちょっとね、どうしても聴きたいことがおありなんです」


なーんて、と茶化した口調で言い添えた後、
千石は自分の行きつけらしい店に僕を連れていきたいと言うので
僕はこうなれば完全に千石を叩きのめす糸口をみつけてやると心に決めて、千石の誘いに従った。





落ち着いた雰囲気のそのバーは、千石が選んだにしては悪くないところだった。
僕はこいつと酒を交わす気なんかさらさら無かったから、ペリエでいいと言うと
千石は苦笑しながら自分の分にはウォッカを頼んだ。


「…さっきはさ、悪かったよ」  
「何がです」
「その、昔のことを…ああいう風に挑発の材料に使ったりして。
  …フェアじゃなかったと思う。ごめん、観月君」
「……別に気にしてません」

半分嘘で、半分本当だ。
ああいう真似をされたことを、今でも本当は許せないと思うけど
その反面、こうもあっさりと謝られてしまうと毒気を抜かれる。

「じゃあ、本題に早く移ってもらえますか」
「え、いきなり?なんか積もる昔話とか…」
「必要ありません、そもそも何も積もってませんから」
「冷たいなあ…相変わらず」
「街の往来であんな真似をしておいて、それなりの理由が無いなら僕も本気で怒りますよ」

そう言って横目で睨むと、千石はやっと少し真面目な顔になった。


「あのさあ、ちょっとどうしても観月君のデータを見込んで知りたいことがあって。その…」
「だから何です。用件をさっさと…」
「今日!!」

いきなり、大声になった千石。

「…今日、どうかしましたか」
「み、観月君の代わりに俺の応対してくれた子!…もう…彼氏いる!?いるよね!?」


そう叫び終わると同時に、千石はカウンターに顔を伏せて耳を塞いでしまった。

それじゃあ答えを教えてやろうにも教えてやれない。
…バカじゃなかろうか、この男。

しばらくその状態が続いて、そっと顔を上げた千石が僕の様子を窺いながらも
やっと、恐る恐る耳にあてていた手をはずしたので、とりあえず確認から始めることにする。


「…ナツコさんのことですか」
「ナツコ!?何で観月君が名前呼びしてんの!?もしかして…
  また俺、観月君の彼女に惚れちゃった!?」



その瞬間、呆れりよりも訂正をするよりも先に
僕は手に持っていたグラスのペリエを、一滴残らず千石にぶちまけてしまった。






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