人魚が海を捨てる時  1




私の職場での昼休みを知らせるのは、会社に備え付けられたアラームじゃない。
毎日毎日呆れるほど、一本の電話がかかってくる。

 
『もしもし〜?お忙しいところすいません、Y広告代理店の千石清純です。あのー…』

チラっと右隣に座っているナツコ先輩を見ると、手を交差させて大きくバツを作っている。
「いないって言って!」と更に口パクでも訴えてくる。

「……ナツコ先輩なら、もうお昼ご飯食べに行きましたよ」
『嘘だ!今、5秒くらい間があったよ!おーい、なっちゃーん!いるんだろ?出てったらー』

受話器を越えて漏れ聴こえるくらいの大声を出されて、思わず耳から受話器を離してしまった。
通話口を手で塞いで、渋い顔のナツコ先輩に顔を向ける。

「ナツコ先輩…。もう7回目の居留守は、さすがにきつくないですか?」
「いいの。見たでしょ?あのヘラヘラ具合。女たらしの相手するほど暇じゃないのよ、私も」
「でも、なんか気の毒…」


うちの会社と前から付き合いのあった得意先、Y広告代理店の担当が新しく変わって
その新しい担当者がこの前挨拶に来た。
本当なら観月さんが応対するはずだったけど、たまたま出張でいなかったから
代わりにナツコ先輩が「何か急ぎの連絡事項でもあれば」、と応対することになったんだけど…

急ぎの連絡なんて何一つなかった代わりに、その担当者はナツコ先輩に恋をした。
それが、件の『千石清純』さんというわけだ。


受話器の向こうで相変わらず千石さんは「なっちゃーん!」と叫ぶ、
その「なっちゃん」ことナツコ先輩は口を一文字に結んで一向に電話に出ようとしない。
この板ばさみ状態をどうしたら…と思って、振り返った。

顔を向けた私の斜め後ろのデスクには、年齢としては2つ年上の観月さん。
ナツコ先輩とは同期にあたるんだけど…とっつきにくくて今まで話したことがない。

でもみんなそそくさと外へご飯を食べに行ってしまって、もう社内には私と先輩と観月さんしかいない。
この状況から観月さんまでいなくなったら、本当の本当に先輩と千石さんの板挟みに窒息死確実。
背は腹に変えられない。思い切って助けを求めるために声をかけた。


「あの、み、観月さん…」


既にスーツに腕を通して外へ行こうとしていた観月さんは、私の方にチラっと視線を寄越した。

でも、明らかに好意的ではない反応にたじろいてしまって、肝心の用件が言葉にならない。
そんな私を察してくれたらしく観月さんはそのまま黙って近づいてきて、
私の手から何も言わずに受話器を取った。

隣のナツコ先輩も、ちょっと驚いた顔で観月さんを見てる。

「…お電話代わりました、観月です。今夜19時にセンタービル1階へ彼女を行かせますから
  そこからは君一人でどうにかしてください。女の人の相手は相変わらず得意なんでしょう、どうせ」

思いもよらない観月さんの言葉に、それまで椅子に座っていたナツコ先輩が勢いよく立ち上がる。

「ちょっ…観月君!何勝手な約束取り付けてんの!!そんなの私行かないからね!」
「……うるさいですよ、話はまだ終わってません」

横目でナツコ先輩を睨みながら、かつ電話口にも向かってはっきり言ったところをみると
観月さんの「うるさいですよ」はナツコ先輩だけでなく千石さんにも向けられた言葉らしい。
そうして、私のデスクの上のペン立てからボールペンを一本取る。
その傍に一緒に置いてあるメモパットの上に、観月さんは何かを書き付けていく。

「…ええ、わかりました。じゃあ、以後は仕事以外の件では一切会社へ電話しないで下さいね。
  傍迷惑にもほどがありますから。約束しましたよ。…では」


受話器を置いて、メモパットから上の一枚をペラリとはいで観月さんはそれをナツコ先輩に渡した。

でもナツコ先輩は手を出そうとしない。
観月さんは諦めたように溜息をつくと、メモを自分の方に引き戻してそれを読み上げた。


「今夜19時、センタービル1階のカフェで待つ…だそうです」
「…行かないから、私」
「行ってください。これ以上千石君に会社へ私用電話をかけてこられるのは迷惑です」
「行かないったら行かない!」

ナツコ先輩はそう叫んで、机の上に置いていたバックをひったくるように手に取ると
ドスドスと足音が聞こえるほど憤慨しながら出て行ってしまった。

バターンと扉が音を立てて閉じられる。

観月さんにていよく千石さんをかわしてもらうつもりが…まさか逆にこんなことになるなんて。

呆然とナツコ先輩の出て行ってしまった扉の方を見つめていたら、
観月さんが手に持っていたメモをビリビリと破りだした。
あんな風に勝手に約束をとりつけておいて、しかもナツコ先輩を怒らせておいて
全く悪びれた風もなく平然としていられるのは並大抵の神経じゃない…。

そう思いながら、破ったメモを足元のゴミ箱の中に散らす観月さんに注目してしまう。


「じゃあ、僕達は18時30分にセンタービル1階のカフェで待ち合わせしましょうか」
「僕達、って…観月さんと、誰ですか」
「君ですけど」


私が観月さんと待ち合わせ。……なんでだろう。

観月さんはさっき着かけていた上着に腕を通し直すと、襟元を整えながら言葉を続けた。

「まあ、一応彼女の意思を尊重せずに決めてしまった話ですからね。
  きちんと事がどうなるのか見届けるのも僕達の務めかと」
「や、観月さんは確かにそうですけど…なんで私が」
「心配じゃないんですか?自分の大好きな先輩が狼にさらされて」

でも狼にさらしたのは観月さんですよね、と返そうかとも思った時。

もとはと言えば…私が「ナツコ先輩はいません!迷惑なので構わないで下さい!」と
きっちり言い切れていたら、こんなことにはならなかった。
観月さんが悪いんじゃない。私がナツコ先輩を狼にさらした…。
それに、ナツコ先輩の性格だ。
ああしてはっきりと待ち合わせの時間と場所を伝えられてしまったら、
いくら気に添わない相手でも待ちぼうけを食らわせるようなことはできないだろう。
どんなに嫌々でも、きちんと足を運んで形だけにせよ千石さんと向き合うことになるのは必須。

それを思ったら、私も腹が決まった。

もし、無理矢理千石さんがナツコ先輩に迫るようなことがあった場合、
飛び出していって千石さんを殴ってやろう。
特段腕っぷしが強いわけじゃなし自信は無いけど、不意打ちなら一発くらいきっと殴れる。

携帯電話を取り出して、何か操作を始めた観月さんに歩み寄る。


「観月さん!…じゃあ、今日の18時半ですね。その…私達で頑張りましょう」
「ええ、僕と君とじゃ主旨はだいぶ違っていると思いますが、頑張りましょう」

そう言って、初めて観月さんが私に向かってニッコリと笑ってくれた。
なんだか裏がありそうな気がしないでもないけど…綺麗な顔をした男の人だと思った。









そして今、私と観月さんはセンタービルの1階のカフェにいる。
一番奥の目立たない席に二人で座って、とりあえず飲み物を頼んで入り口の方を窺っていた。


「すいません、さん」
「はい」
「あの植木、10センチくらい右にずらしてきてくれませんか」

観月さんが指さした先には、150センチくらいの観葉植物の鉢植えが置いてある。

「『ずらして』って…いいんですか?勝手に動かしたりして」
「構いませんよ。この位置だと僕が入り口から丸見えになってしまって都合が悪いんです。
  バレたら元も子もないでしょう。さ、千石君が来てしまう前に、早く植木を動かしてきてください」
「は、はい!」


慌てて席を立って、周囲を少し見回しつつ丁度店員さんも傍にいない隙に
植木の鉢の、淵の部分を掴んで少しずつ動かす。 
意外と重たくて力を入れないと動いてくれない…でも、これもナツコ先輩を守るため!頑張れ、私。



なんとか10センチくらいは動かせたので、席に戻ると観月さんは優雅にコーヒーを飲んでいた。

「み、観月さん…。植木、動かしてきました」
「ああ、ご苦労様でした。今が18時45分…そろそろ千石君が来る頃ですよ」

とりあえず私も椅子に腰をおろして、それから振り返って入り口を見る。

…本当だ。
見覚えのある顔が、お店の中に入ってきた。
でも、『千石さんがそろそろ来る』と予告されてなかったらわからなかったかも知れない。
だって最初に会社に来た時もそれから後の電話の時も、びっくりするくらい人懐っこい…
と言えば聞こえはいいけど、要はヘラヘラした感じの印象しかなかったのに
お店の人に案内されるまま、私達のテーブルから数メートル離れた禁煙席に腰を下ろした千石さんは
別人みたいに強張った顔をしてる。

うーん…何か怖いことでもあったのかな?

そう首を捻る私の正面で、観月さんは腕時計を見て余裕の表情だ。

「今が46分。50分になったら彼女がやってきますよ」
「…どうしてわかるんですか?」
「知りたいですか?」
「知りたいです。お願いします」

本当に知りたかったので、頭を下げてもう一度「お願いします」と言う。
軽く含み笑いをした後に、観月さんはそのわけを話してくれた。


曰く。

千石さんというのは女の人に対してとても器用な人らしい。
こうして初対面の女の人と待ち合わせをする時にもそれがあらわれていて、
30分以上も前から待っていたらその間に色々と余計な気合が入りすぎて、肝心な本編でコケてしまう。
かと言って5分前だと、早めに来ている女の子の場合は待たせてしまいかねないし
ギリギリに駆け込むとそれはそれで色々と不手際が起こりやすい…というのが彼の持論。
だからその中間をとって、千石さんはきっちり15分前に待ち合わせ場所に到着する主義なんだとか。

そしてナツコ先輩に関しては。

約束の時間に遅れる男は論外、かと言って早めに来すぎている男も
「肝っ玉が小さいから対象外」らしいのだ。
だから待ち合わせの10分前にナツコ先輩が到着したその時にそうそう待った様子もなく
きちんと先に待ち合わせの席についている…というのが、理想とのこと。



「…そんな話、いつ仕入れてきたんですか」
「彼女の場合は飲み会でそういう話を女同士でしていて、それを耳に挟んだだけです。
  千石君とは…学生時代に細々とした付き合いがありまして」
「そうなんですか。でも、待つのも待たせるのも…結構色々な意味を含む行為なんですね」


私はそこまで深く考えて人と待ち合わせをしたことがない。
だから物珍しい気持ちで観月さんの話を聞いていた。
物珍しいついでに、目の前の観月さんならどういう風に考えるのかに興味が湧いたので
恐る恐る聞いてみた。

「あの、観月さんなら…」
「はい?」
「観月さんなら、どうしますか。こういう待ち合わせの時って…やっぱり色々考えますか」

その私の質問への返事に、観月さんが口を開きかけたその時。

 
「いらっしゃいませ、お一人様で…」
「なっちゃん!!」


店員さんの声がしたと同時に、大きな声をあげた千石さんが椅子から立ち上がっていた。
振り返って入り口に視線を走らせると、そこには眉間に皺を寄せたナツコ先輩。
そして観月さんの時計を覗き込むと、案の定18時50分。


先輩は店員さんの案内を手で制して断ると
ヒールの足音をガツンガツンと思いっきり響かせながら、千石さんのいるテーブルへ歩いてくる。

当たり前だけど、ものすごく不機嫌全開だ…。

ハラハラしながら首を捻って植木を隔てた先にいる、ナツコ先輩と千石さんを窺う。
観月さんはというと、何か興味深いお芝居でも見ているかのような楽しそうな顔をしていて
明らかに高見の見物をきめこんでいるのが明らかだ。

どうしよう…何かあったとき観月さんは頼りにならない。
私一人でなんとかしなければと、そっと覚悟を決めて手を握り締める。


千石さん達のテーブルに注文を取りに来た店員さんに、
ナツコ先輩が開口一番高らかな声で「ビール!」と告げた。









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