対飼いになりたい / 青の鳥 08




洗濯を全て終えた後、の手をひいて南の庭へ出た。
やるべきことは片付けたし、予定通りの夜の散歩だ。


身の丈ほどの高さに枝を伸ばす、物干しには丁度いい木へシーツと寝巻きをかけて
それとなくの様子を窺ってみる。
試験を終えて家に戻るころには完璧に乾いてるはずだと俺が言ってやっても
は浮かない顔どころか、色を失うほどに青ざめて、地面ばかり見つめていた。

仕方ないので二人とも黙り込んだままの状態で、噴水の方へ歩いていく。

見上げた夜空には、月が寒々しいくらい雲一つまとわず姿を見せていた。
きっと噴水の水面には、空にあるよりずっと綺麗映っているだろう。
それを見せてやれば、の機嫌も持ち直すかもしれない。




噴水の前に立ったとき、名前を呼ばれたので姉気の方を見る。
少しは良くなるかと思ったのに……
またボロボロと涙を流しながらはその場にしゃがみ込んでしまった。

期待と正反対の反応をされたことに思わず舌打ちが出る。

 
「どうしたんだよ、何がそんなに悲しい」

は返事をしなかった。

こうも重ねて泣かれてしまうと、俺の方だって本当に泣きたいくらい胸が痛むのに……
そのことを知ってて、こいつは泣いてるんだろうか。
だが、二人して一緒に泣いたところで何も解決しないし、何も言わずに寄り添うことには意味すら無い。
の悲しみをわかりあうのも分け合うもの、俺はごめんだ。
今その胸を満たして涙を流させる感情全て、この手で根こそぎ消してやる。 


軽く髪を揺らされる程度の夜風が吹いて、噴水の水面に映っている月が波紋と一緒に歪んだ。


の正面に膝をついてから頬に手をあてて顔を上げさせる。

「あんまり泣くと目が腫れちまうぜ。明日の試験に障るから、泣き止め」

そう言った俺からが顔をそむけようとしたのを、添えていた手に少しだけ力を入れて押さえた。
だがはせめてもの抵抗か、視線だけをそらして俺を視界から外そうとする。
僅かに目を伏せると同時に、また新しい涙が押し出されて、は小さな声で呟いた。

「私だって、泣きたくて…泣いてるわけじゃない」
「ふん。…そうは見えねえが」
「だって景吾が…言ったのに。なのに…だから私は」
「何が悲しいのかくらい、きちんと教えろ。……どうせさっきの話の続きだろ?自力で泣き止めねえってんなら、俺が泣き止ませてやるから」

どんな感情も原因と結果の産物だ。
を泣かせる悲しみには必ず理由と意味があって、はそれを俺に伝える義務がある。
この義務に自身の自覚はなくとも、拒否する権利は認めない。


「…もう部屋に戻ろうよ、景吾」
「駄目だ」
「私、眠りたい。お願い」
「甘ったれたこと言ってんじゃねえよ。全部俺に話してからにしろ」

少しだけ語気を強めて言ったのは、ためらうの背中を押したつもりだった。
でもまるで逆効果だったらしく、は目を瞑って泣き出してしまう。 ……なんでこうなる。

部屋に入る前から今の今まで、俺の動作と言動一つ一つに対して
は不必要すぎるくらい神経質になっているようだ。 
泣きたくて泣いてるわけじゃないなら、その理由も言いたくなくて言わないわけじゃないんだろう。

一歩譲って、道を作ってやるか。

何にしたって、が悲しむ姿を眺めてるだけしかできない俺じゃない。
震える心を暖めるための言葉だって持ってる。直接に抱き締めるための腕だってある。
そのことを、先に教えて安心させてやることにした。 



添えていた手を少し下へずらして、顎先にかかったところで顔を上げさせる。
ゆっくり俺から顔を寄せて、そうして初めて、俺はに口付けた。 



間違いなくこれが初めてだ。唇だけは、お互いに今まで絶対にしたことがなかった。
の広げる翼へ、一本の釘を打ち込んでしまったような気がして
どんな場面でも緊張なんてしたことのない俺なのに、体が強張っているのが自分でわかる。

ほんの唇を交わらせただけでこのザマか。

本当に欲しかったものに、いよいよ手をかけてしまう幸せは光が濃いほど影を持つ。
でも物心ついた時から、俺はにいかれてた。 だから今更、この先に迷いなんてない。




ゆっくりと唇を離してから、改めて正面からの瞳を覗き込むと
は数秒の間、泣き顔の中に驚きをいっぱいに浮かべて俺を見つめ返していた。

瞼の淵に再び涙が溜まっていって、それがこぼれると思った瞬間、俺の胸に顔を寄せる。
俺が抱きとめてやると頭から信じていたのか、は迷いもせずに倒れこんできた。
しっかりと預けられた体の重みを腕の中におさめて、そっとの背中を撫でる。 



「全部話しても、私のことを嫌いにならないで」

すがる様子を隠そうともせずには呟いた。
が俺に向かって、自分を嫌わないでほしいと言うのは今夜もう二度目。
お前を逃がしたくなくて、青空さえ見せない暮らしを強いてる俺に向かって見当違いな願い事だ。

は俺の耳元で優しくさえずる以外のことは何もしなくていい。
考えなくていい。知らなくていい。

そのために俺は、お前をこれ以上ないくらい大事に飼ってるんだから。


「ったく、ほんとに手がかかる奴だな」
「…そんなことないと思う」
「ある。俺の許しもなく勝手に泣くなんざ出すぎた真似してんじゃねえよ」
「ごめん」
「ちゃんと、全部話せよ」
「…頑張る」
「部屋に戻ろうぜ、もう散歩は充分だ。……話はベットの中でゆっくり聴いてやるから」


顔を上げたは、もう泣いていなかった。俺の背中に手をまわされて、柔らかい腕から抱き締められる。



だが妙な予感があった。

あの女がを奪ってから、また俺がそれを連れ戻した今日までの間、
ずっと止まっていた時間が動き出そうとしている。 いや、もう動き出してるのかもしれない。
俺の時計を止めたのがなら、その針をもう一度動かしたのもだったか。 


きっとの話は、俺達の関係を変える。
それなら、残りの準備もできるだけ日を早めていかなければならないだろう。


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