対飼いになりたい / 青の鳥 06



試験対策の勉強も一通りは終えて、いよいよ明日がの編入試験日だ。
風呂と明日の準備を済ませてからの部屋へ向かう。


今夜もきっと、せがんでくるだろう。
先週から長引かせていたの風邪も、今朝見た感じじゃほとんど治りかけているようだったし
久しぶりに連れて行ってやるとしようか。





一緒に眠るようになって何日目かの夜、が寝返りをうってばかりでなかなか眠らない時があった。
眠れないのかと訊いてみると、寝る前に天窓の先に見えた月が綺麗だったと呟いた後に、
一日中部屋から外には一歩も出してもらえない生活に不満は無いが
それでもやっぱり、屋外の空気を吸って夜風に吹かれてみたいと思う時もあるんだと、
囁きよりも小さな声では言葉を続けた。

その言い方は、別に俺がに対してやっている扱いを責めてわけじゃなかったし、
俺にしたってが今の暮らしに窮屈さを感じる瞬間があっても仕方ないとわかっていたが……
まだ今は、学校に行って俺が家を空ける時間に外を出歩く自由は与えてやれないと思った。
いつどんな時でも、の居場所が一点だけに確定していないと
大事にしたい気持ちよりも、断然この手から逃したくない気持ちが勝ってしまう。

ただ、その会話を交わしたのが眠りにつく前で、を腕の中に抱きしめた状態だったから
安らぎに気が緩んでいたせいか、自分の望みよりの望みを優先してやりたくなった。

本当なら趣味じゃねえが、妥協案をくれてやるのも仕方ないだろう。

そう思って、少しだけ外を歩かせてやろうかと言ってみたわけだ。

ベットから抜け出して、が戻ってきてからは初めて敷地内の庭を歩かせてやると
は本当に喜んで、俺に右手を握られたまま冷たい夜風へ気持ち良さそうに目を細めた。
そうして部屋に戻る間際、俺の気が向いた時でいいから、またこうして連れ出してほしいと
繋いだままになっていた俺の手に、頬を寄せながら頼まれてしまう。

肌に触れてねだられると、俺は弱い。
その晩限りにしようと思っていたのに断れなかった。

こうして、たった15分足らずの庭歩きは『夜の散歩』と名付けられて俺達の習慣になった。
不定期の、連れ出してくれた礼と言って頬にキスをもらえる夜の習慣だ。


庭を歩きながら、がいつも口にする言葉がある。
「こんなに綺麗な景色に囲まれて毎日を過ごしてきた景吾は本当に幸せ者ね」と、
微笑み混じりの声で嬉しそうに言ってくる。 
その時、俺は繋いでいた手を握り返すだけで返事をしない。
俺には傍にあって当たり前の風景だったし、なけりゃないでも別に構わなかったからだ。

いくら沢山の美しい植物に囲まれていても、色も香りも感じられなければ砂漠と同じ。
一番傍にいてほしい人間が傍にいてくれなかったあの毎日の中で
誰と比較するまでもなく、ただ絶対的に不幸せだったと思う。

今は傍にいるじゃないかと言われれば、それまでかもしれねえが。



の部屋の扉の前に立って、いつものように首からかけていた鍵をはずした時
廊下に差し込んでいた月明かりが影って、うっすらと宵闇の濃さが増す。

その暗闇に、の肌の感触を思い出した。


夜の短い散歩をした後、は必ず俺より先に、しかも深く眠ってしまうから
俺は寄せられたの体の、唇以外の部分へ一晩中気が済むまで口付ける。
それが俺にとって『夜の散歩』が意味する習慣だった。
頬から耳、首筋、寝巻きのボタンも外して肩から鎖骨と、なだらかに広がる胸。 
細い腰まわりの皮膚は、普段日にあたらないからか他の部位以上に驚くほど柔らかい。

こんな夜這いじみた真似、今の俺にとって欲情してもおかしくないと思う。しないほうがおかしいくらいだ。

なのに、不思議とそうならないで、いつも穏やかに優しく満たされる。

きっとこの行為に溺れている時、俺はと離れていた間の幼い自分に戻っているのかもしれない。
を起こさないよう、皮膚には痕が残らないよう何度も唇を落していくごとに
いつも自分の中にあった冷たすぎる痛みが、一つずつ音もたてずに溶けていく。

その心地よさに任せて、いつのまにか眠ってしまうから
おかげでいつも次の朝、の寝巻きはボタン一つ留められずにはだけたままだ。
でもはそれを特別気にしたりしない。
いつもどおりに俺を抱き締めて朝の挨拶をくれるから、俺も何も言わない。 

そうしてきっと今夜も、の肌を唇で感じることができるだろう。








いつも東側の庭ばかりだったから…今夜は南にしてやろうか。


鍵を開けてからドアノブに手をかけて扉を開こうとした途端、中から鋭い声がかかった。

「開けないで!」

ガンッと鈍い衝撃がして、ドアはほんの少ししか開かない。


……何のつもりだ。


どうやらドアの向こうに何か家具を置いて、ドアを封じているらしいが
でも喧嘩なんてした覚えは全く無いし、拒まれる心当たりだって微塵も無い。
それなのに内側から扉を封じられて、俺は締め出しをくらっている。

軽く胸を弾ませながら来ただけに裏切られたような気がした。


「…おい、開けろ」

その気になれば簡単に開けれるのはわかっていた。
押しただけで薄く開いたことからして、そう重量のある家具で塞いでるわけでもなさそうだから
少し力を入れてもう一度ドアを押せば、の制止なんか無視して中に入ることは可能だろう。

でも今こうして、俺を中へ立ち入らせまいとしたの行動そのものが癇に障った。

気に入らねえ。 なんでだよ。
籠の中に閉じ込めていても、まだ俺のものになってない……



このまま怒りに呑まれないよう頭を振って、深呼吸を二、三度繰り返してから
その場に立ったまま目を閉じた。

こんなことくらいで気持ちを揺らしてたまるか。 冷静になれよ、いつも他の奴らにしているように。 


「おい…開けろ。聞こえねえのか」
「待って。あと10分…5分したら開けるから」

上ずった声が扉の向こうから返ってきたものの、それは俺の望んだ返事じゃない。

「駄目だ。今開けろ」
「開けられないの。景吾、少しだけ待って」
「待たねえ。開けろよ」

頼むから開けてくれ。そうでないと俺は。

「……開けるからな」

大きく息を吐いてから、もう一度ドアノブに触れた瞬間。


「嫌!入って来ないで!!」




その一言で我慢が切れた。
力を込めてドアを蹴り上げると、バタンと何かが倒れる音がして
通り抜けするには充分な幅にドアが大きく開かれる。
中に入るとすぐ傍に椅子が倒れていて、それがドアを塞いでいたんだとわかった。

が、俺を入ってこさせまいとして椅子をドアの前に置く。その様子が頭の中に浮かんできて、青白い火花が散るような痛みを覚える。最近は忘れかけていた痛みだ。あの日の痛みとよく似た苦しさ。 

不意に笑い出したくなった。 

こんな中途半端な真似しやがって、本気で俺を締め出せると思ったのか。
そんなに入ってこられて困るなら、もっと頭使ったものでドアを塞げ。

そうして思い知ればいい。

どんな手段を講じてみたって、お前はもう絶対に俺から逃げられないんだよ。
体へからめてある鎖の重さに自覚がないなら、翼を折られる痛みに替えてやる。
そのうち脚さえ壊して、蛇のように地べたを這うだけの生き物にしてしまったとしても
俺の腕の中で飼い殺したい気持ちは変わらない。 

だってお前は俺の愛しさそのものだから。







部屋の中を見渡してみて、の姿は見当たらなかった。
だが物音を失って静まり返っている以外に、いつもと違う点と言えば……
クローゼットの扉が完全に閉まりきってないことくらいか。

考えるまでもねえ。何のつもりかは知らねえが、俺から身を隠そうとしたんだろう。

足音を殺して、ゆっくりとクローゼットの方へ近づいて、
扉の前に立つとそこにかすかながら確実に人の気配を感じた。


「……出て来い」

返事はなかった。でも確信する。 はこの中に隠れて、俺が出て行くのを待ってるんだ。

扉に触れる指先に力がこもって、軽い痛みを感じるくらいに爪をたてた。


「お前、そこに一晩中隠れてるつもりか」


まだ返事は返ってこない。 その時、中でカタンと物音がした。

今ので自身にもわかったはずだ。
クローゼットの中に自分が隠れていることが俺にばれたし、
がそれを悟ったことも俺にはわかってしまったと。
でも、まだ出てこようとしないとは……ほんと、馬鹿げた選択しやがって。
加えてらしくない、いや、不自然なくらいにらしくない。


少し不可解な気分になる。もしかして……

「……明日の試験が嫌なのかよ」

やっと聞き取れるほどの、小さい声が扉越しに返ってきた。

「……ううん。違う」
「違うって……じゃあ何だ」
「……怒らない?」
「さあな。事と次第によるんじゃねえか」
「それじゃあ駄目。……事と次第によっても怒らないって、嫌な顔だけはしないって約束して」

言葉の終わりになるにつれて声が少しずつ大きくなっていて、妙に必死な響きを感じた。
ただ何にしろこの俺が……に嫌な顔なんてするわけがないだろう。
そりゃあ確かについさっきは、いきなりの仕打ちに気持ちが荒れかけたにしろ
いつだって本当は大事にしたいと思ってるし、その呼吸一つすら愛しいと思ってる。


さっきまでの怒りも薄れて冷静な考えが戻ってきた。

もしかすると、自身に何か後ろめたいことがあって部屋を閉ざそうとしたのかもしれない。
そうして俺があんな風に乱暴に扉を開けたりしたから、怯えちまってこんな風に隠れたのかも。
……そう考えたら筋は通るな。



「……わかったよ。怒らねえし、嫌な顔もしねえ。だから……ほら、出て来な」


そっとクローゼットの扉を撫でる。
今はただ、この腕を差し伸べてを包みこんでやりたい。







ゆっくりとクローゼットの扉が開かれていく。
1秒をさらに何倍にも引き伸ばしていくような時間の末、扉の淵に内側からの手が覗いた。

夜も遅くなりつつあるこの時刻、はとっくに寝巻き姿になっているはずだった。
だが扉が開かれて、腰が抜けるかと思うくらい驚いた。


指先からいっせいに血の気が引いて体中を逆流する……なにがどうなって、そんな格好を。


俺の前に立った
その立ち姿は下着だけかろうじて身につけていたものの、ほとんど全ての肌をさらしていた。
着ていた寝巻きはひとまとめにして胸元に抱えられている。


「……景吾。ごめんね、ごめんなさい」


泣きそうな目をしながら顔を上げて、震える声で俺に言った。

何があったか訊こうと思っていた。なのに、俺の喉からは言葉が出てこない。


「私……気をつけてたつもりだったんだけど……」


暗がりの中では何度も唇を寄せた肌でも、こうも明るいところで
しかもにしっかりと視線を向けられながら眼前にさらされるのとでは何もかも違いすぎる。

今すぐ抱き倒したいくらい、女だ。 


俺が黙ったままでいるのを、怒っていると勘違いしたらしい。
は瞳にみるみるうちに涙をためていくのを頭の隅では認識していたが、
とにかく平静を保つふりをするだけで精一杯だった。

の体が小さく震えて、キャミソールの肩紐が薄い肩から音も無く落ちる。


「今から…本当にすぐ洗おうと思ってたの……すぐ洗えばシミにならないし、本当に。
  でも景吾が嫌なら、もう一緒に寝てくれなくてもいいから。私、ちゃんと気をつけるから…」

それがどういう意味なのか、わからない。
わかるのは自分の心音がこれ以上ないくらいに、きつく胸を叩いてるってことだけだ。

が一歩だけ足を引いて後ずさると、肩が丁度かかっていたハンガーに触れて
さっきと同じように小さくカタンと音がした。

正面から俺の目を見つめて、は言った。


「だから、まだ傍にいさせて。もう…絶対に汚さないから……だからお願い景吾」

私のことを嫌いにならないで。


そう言って、頬を流れた涙が胸に抱える寝巻きにポタリと落ちる。

落ちた涙は薄い水色の寝巻きに、小さな濃い青の斑点を作って……
その斑点のすぐ傍に、真っ赤な染みの淵がのぞいていた。





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