対飼いになりたい / 青の鳥 03 あのアパートからの帰り道、適当なところで食事だけ済ませようと言ったがは食欲がないという。なのでそのまま、すぐに戻ってきた。 あんな母親でもにとっては一応たった一人の家族だった。仕方ない。 だが明日からは、どんなに嫌がろうとも食事はきちんととらせる。 同じものを、同じ時間、同じ場所で食わせて、文字通りこれから寝食を共にするのは俺なんだと思い知らせてやりたいからだ。 壁を隔てた向こうがの部屋だ。 のために俺がなにもかもを選んでしつらえてやった、最高の部屋にがいる。 の部屋には外からしか開けられない鍵をつけた。中にバスルームもあるし、用があれば内線電話で俺に直接連絡できるようにしてあるから問題ない。もちろん部屋を開ける鍵は俺が持っている。 これでもう、俺の許可無しにはどこにも行くことができないと思うと気分が良かった。長い間の寂しさが、ほんの少し軽くなったような気がする。 椅子に座ったまま壁の向こうを思っていたら、目の前の電話が鳴った。 しばらくは鳴らないと思ってた。 自分でつけさせておいて何だが、のあの様子からだとたとえ用があっても鳴らさないと思って、だからこそ、俺に頼ってこざるを得ない状況になってしまえばいいと考えていた。 3つめのベルで、受話器をあげる。 『景吾?あの、なんだけど』 「わかってる、それくらい。で、用は」 『ちょっと相談したいことが…私が景吾の部屋に行ったほうがいいよね。だから部屋の鍵を開けてほしくて』 「必要ない。俺が行く」 返事を聞く前に受話器を置いて、椅子から腰をあげた。 出だしは好調だ。 首から下げていた細い銀のチェーンを服の中から引っ張り出す。先についた鍵を月明かりにかざすと、それは青みを含んで静かに光った。 鍵を開けてノックもせずに部屋へ足を踏み入れる。 昨日まではこんな風に柔らかい雰囲気じゃなかった。 物だけ完璧に揃っていて、それを使う主人がいない静けさが不気味ですらあったのに こうしてがいるだけで、きちんと呼吸をしているような、明るい色を帯びてる気がする。 部屋だけじゃない。 が俺のところに戻ってきたというだけで、目に映る全ての彩度が段違いに増した。 そのことにたまらない嬉しさと、また突然いなくなってしまう時が来たらという不安が消えない。 風呂も済ませて荷物の整理をしていたらしいが俺に気付いて顔を上げた。 「ごめんね呼びつけて。勉強してた?」 「荷物の整理はついたのか」 床に置いたトランクの傍にしゃがみ込んでいるは、小さく頷いてみせる。 そのすぐ隣にあった椅子に腰を下ろしてトランクの中を覗き込むと、あらかた空になっていた。 もともと、持ってこさせてやった荷物自体が少なかったから当然かもしれない。 でも不憫だなんて思わない。足りないものは何もかも、俺が用意してやればいいんだ。 「景吾。それで相談なんだけど」 はそのトランクの底においてあった、やけに年季の入った手帳を手に取って そのうちの1ページを開いて俺に見せた。予定が入っているらしい時間帯のメモが、土日も平日も関係なくびっしりと書き込まれてる。 何の予定だろう。まさか男と会う時間ってわけじゃねえとは思うが。 が俺の方に身を寄せて、一緒に手帳の中を覗き込みながら明日の日付を指差した。 「明日は私、早番なの」 「早番?」 「うん。喫茶店のアルバイトしてて、明日のところに7時から17時までって書いてあるでしょ。ここからだと朝6時には出てバスに乗らないと間に合いそうにないから。面倒かけて悪いんだけど、明日だけ、ううん早番の時は部屋の鍵を6時くらいに開けてほしい」 その言葉を受けて改めて、手帳の中のスケジュールを見回してみる。 ここに書かれた時間帯は全部バイトに入って過ごしてるってことは、は学校にほとんど行ってないことになる。 何考えてんだ?そりゃあ勉強が嫌いで授業をサボる奴がいることくらいは知ってるが、決してそういうタイプじゃなかったはずのこいつが、学校そっちのけでバイト三昧かよ。 の持ち物の中には何冊も参考書が混じっていた。てっきり真面目に学生やってるもんだと思っていた。 ただのお飾りだったらしい。 辞書がやたら使い込まれてるような気がしたのも、俺の勘違い。 変わってないように見えて、5年もたちゃ誰だって変わりもするか。 でも、こんなの姿を俺は望まない。 「そうレベルの高い高校に通ってるわけじゃねえんだろうが……バイトに没頭する暇があるなら勉強しろよ。しかもお前受験生だろ?いい加減…」 「高校には通ってない」 「馬鹿、だからきちんと通えって」 「高校には入学してないの」 全く考えもしなかった答えに、言葉を失う。俺の手から手帳をそっと外して自分の手の中に戻すと、は少し恥ずかしそうに笑ってみせる。 「中学3年の夏くらいから…お母さん、あんまり具合が良くなかった。だから高校なんて行ったらますます負担かけると思って、受験しなかったんだ。でも平気。勉強なんて好きじゃなかったし、友達はバイト先に沢山いるし」 てっきりどこかの公立に通って、それなりに楽しくやってるもんだとばかり思ってたのに。 何が『勉強なんてそう好きじゃなかった』だ、『友達はバイト先に沢山いる』だ。 それならどうして未練たらしく参考書なんて大事に持って使ってやがる。 それならどうして…母親が死んだってのに、誰一人として弔問に来ていなかったんだ。 は昔と何も変わってない。ただ、を取り巻く環境だけが変わっていた。 「……バイトは今日限り辞めろ。辞めて、明日からは一日中家にいればいい」 「この部屋の中に?」 「ああ。俺が帰ってきたら部屋の鍵も開けて相手をしてやるから、それでいいだろ。アルバイトなんて跡部の家に住んでる奴がすることじゃねえ」 その手帳は用無しだから捨てておく、と俺が手を出したのに従って は大人しくそれを差し出したが、手を離そうとはしない。 床に座ったままのと、椅子に腰掛けた俺とで、一つの手帳を引っ張りあう形になる。 「なんだよ、なんか言いたいことでもあんのか?不満があるなら言え」 「どうしてもアルバイトを辞めなくちゃいけない?」 「当たり前だ。学校に行かねえ奴は家にいろ。バイトなんてするな」 「学校は…仕方ないじゃない。今更行けないんだから」 だろうな。本当はだって進学したかったに決まってる。 でもあの女のせいで、あんな奴の体調を気遣ったせいでできなかった。 本当に許しがたい話だが今だけはそのことに感謝してやる。 「…なんにせよバイトは絶対に今日限りで辞めろ。いいな?」 「景吾」 「その代わり選択権を与えてやる。の好きなほうを選ばせてやるよ。バイト辞めて明日から一日中を家の中で、この部屋の中で過ごすか。それとも…」 手帳の左端を握るの手に、力が入ってわずかにそっちへ手が引かれる。 明らかに強張ったその表情は『家にいるのは嫌だ』という返事と同じだろう。 それはそれで決して歓迎する答えじゃないが、まあいい。 俺でさえ今の今まで予想しなかった好都合だ。 笑みが浮かびそうになる頬を引き締めて、の瞳を見据える。 「それか、バイト辞めて学校に行け」 この言葉には驚いたらしく、手帳の端を握っていた手をパッと離した。 「学校って……」 「言っとくが大学じゃねえぜ。お前の年なら来年大学生ってのが普通なんだろうが、中卒のままじゃ受験資格もないからな。とりあえず高校に入り直さねえことには始まらない」 俺の手の中に完全に収まった手帳。は完全にその存在を忘れてしまったようだ。 目を丸くして俺に視線を向けているのを視界の端で充分に意識しながら、さりげない風を装って話を続ける。 「途中編入で充分いけるだろ。どうせ勉強だけはしてたみてえだし」 「どうして勉強してたって分かるの?」 「そりゃお前……」 本棚の参考書へ目をやろうとしたその時。はその根拠が何なのかを察したらしい。慌てて立ち上がると、俺の視界を覆うように椅子に座ったままの俺を正面から抱き締めた。 「見ないで」 「見てねえよ」 「…未練たらしいと思ったでしょう」 「思わねえ」 「ほんとに?」 「ああ。俺がそんなこと思うわけねえだろ」 そしては、少しだけ腕の力を緩めて俺を優しく抱きしめ直す。 久しぶりに、本当にもう気が遠くなるくらい久しぶりの感触に、思わず目を閉じてしまう。 どうしてこんなに落ち着くのかわからない。 何年たっても変わらずに、やっぱりはのままでいたことへの安心がそうさせるんだろうか。 「景吾にこうしてると昔みたい。大きくなった分、少し抱き締めにくいけど」 「…悪かったな。成長期で」 「嬉しいよ」 そうして俺の髪を撫でながら、は小さく笑っていた。 自分の部屋に戻ってすぐにそのままベットに横になる。 その体勢のまま、俺の部屋に一緒に持ってきたの手帳を1ページ目からめくっていって 10月のところで手がとまる。 きちんと俺の誕生日の日だけが青いマーカーで囲んであった。 はっきりそれと書き込んであるわけじゃない、でもその日だけが空白になっていて びっしりとバイトの予定が書き込まれたカレンダーの中で浮いている。 やっぱり、離れていた間もは俺を忘れてなんかいなかった。 これからは誰よりも傍に置いておこう。それがどんな不自然な形に見えようとも構わない。 部屋を出る間際に交わした会話を思い出す。 『特別に行きたい高校はあるのか』 『無い。受験諦めたときから、高校のことは考えないようにしてたから』 『そうか。…なら、いい』 『ごめんね』 別に謝ることでも何もない。むしろ褒めてやりたかった。 何にも知らなくていいんだ。俺が与える世界だけを知っていけばいい。 きちんと部屋の鍵は閉めてきたから、明日は俺が戻る夕方まで開けてやらない。 その間にやるべきことが山積みだ。 |