対飼いになりたい / 青の鳥 02



仏壇も何もない、ただ白い布をひいた台の上に写真立てと遺骨が置かれていた。
写真の母親は、もとから接触が無かったせいでまるで知らない他人にしか見えない。

俺からを奪った5年間、死んで償えたなんて思うなよ。
もう二度と、夢のなかでさえもに関わるな。
は俺の手で幸せになる。 だからお前は安心してくたばっとけ。

合わせた手の間から写真立ての中で微笑む母親を睨みつけながら、そう思った。


「来てくれてありがとう、景吾」

手を合わせていた俺に後ろから小さな声がかかって、俺はの方に向き直った。
いかにも安物と見て取れる湯呑みに、は茶を注ぎ入れて俺の前に置く。

今、俺の周りにいる女と全然違う。マニキュアの一つすらも塗ってない。は自分の指先が俺に凝視されてることに気づいても、恥ずかしがって引っ込めたりせずに、そのままじっとしている。
5年前までこの手が毎日、俺を抱きしめて頬を撫でてくれた。
俺と違ってピアノも習わせてもらえなかったせいで、は簡単な曲の一つも弾けなかった。折り紙とかあやとりとか、そういう遊びが本当に上手かった。

「もう何年も会ってなかったね。すぐにはわからなくて、ごめん」
「気にしてねえよ」
「ありがとう。でも驚いた。お線香に上げに来てくれる人なんていなかったし、それに…」

そこまで言うと、は困ったように少しだけ笑った。

「それに、なんだよ」
「あんまりにもかっこよくなってたから。きっと一目惚れしてたと思う、景吾だって気付かなければ」
「…馬鹿か。弟に向かって恋も何もあるわけねえだろ」
「そうだね。ごめん」

心の底から後悔する。

大人しく、弔問客のふりでもしていたらは、俺に今頃。




「でもせっかく景吾が来てくれたのに、こんな時だし…何にももてなしてあげれない」

済まなさそうな顔をして、「ごめん」とはもう一度頭を下げた。
その言葉を受けて、改めて部屋を見渡してみる。
ほとんど物が何にもなくて、どの程度の経済状況なのかは見て取れた。でもあの母親との、二人だけの空気が流れていて、俺を部外者だと感じさせる。用件を切り出すことにした。

「なあ、戻ってこいよ」
「お父さんの方に?」  
「ああ。どっち道、もう頼れる奴なんて誰もいねえんだろ?親父は今までしてやれなかった分面倒みたいって言ってる。をうちに引き取りたいとよ」

嘘だった。 をできるだけ警戒心を起こさず自然に呼び戻すためでまかせだった。あの親父がそんなこと考えるわけねえし、引き取るよう提言してれば嫌な顔をしたに決まってる。
だから独断でこうして俺は一人でのところへ来たわけだが、どうせ親父が俺に寄せる信頼は半端じゃない。事後承諾をとる時に納得しやすい理由を並べればいい。

そしては、俺の言うことに逆らうわけがないんだ。
いつだって、わざと困らせたくて言った俺の我侭にも二つ返事で頷いてくれていたし、だって母親のしがらみが無くなった今、俺の傍に戻って来たいはず。


は一つゆっくりと瞬きをしてから、慎重に口を開いた。

「ありがとう景吾。でも、私は平気だから」
「遠慮してんじゃねえよ。くだらねえ」
「違う。とてもじゃないけど戻れない。お母さんが可哀相で」
「……可哀相?」
「あの家が嫌でお母さんは私を連れて飛び出したのよ。なのにお母さんがいなくなったからって、私が戻ったりしたらお母さんを裏切ることになる」

は俺から目をそらして、細く溜息をついて言う。

「お母さんには私しかいない。本当に私しか。……だから、私は戻れない」
「それ、本気で言ってんのか」

気がつくと、手のひらを力いっぱい握り締めていた。
信じられないような言葉の連続だ。
だいたい、だろう。ていよく洗脳されやがって、同情の余地もねえな。
の身の振り方の中心には、今もしっかりと母親が居座ってる。それを思うと怒りだけが沸きあがってきた。

「こんな女について、俺に一言のことわりもなく家を出て行きやがったくせに。それは俺への裏切りじゃねえって言うのか?弟なら踏みつけにしても平気なのかよ」
「そんなことない。あの時もし、景吾に引き止められてたら、私は母さんを独りで行かせてしまってたと思う。それくらいに景吾のことも大事に思ってる、でも…」
「でも、なんだ。どうせ俺のことなんざ二の次三の次でしかねえんだろ」
「違うわ。でも景吾には、私じゃなくても沢山の人がいたじゃない。お母さんには私しかいなかった。だから私はお母さんの傍にいてあげたくて」
「ふざけんな!」

が肩を揺らして身を引いた。高ぶった感情に抑えがきかなかい。俺にだって、お前しかいなかった。今でもお前だけだと思ってるのに。

「…だいたいを俺から奪ったこの女の、どこが可哀相ってんだ。笑わせんのもたいがいにしろ」
「景吾。でも…やっぱり、私は行けない」


あくまで俺の大事な姉として、丁重に家へ呼び戻そうと思ってた。

戻ってきた家で始まる生活に、何か不安な点があって踏み出せないなら、それを全部俺の手で取り除いてやろうとまで思って、色々と手はずも整えてたっていうのに。

なのにそういう考えで、断ろうとするんなら話は別だ。
相応の態度でお前がこんな家にとどまれないように追い詰めてやる。
次に会えた時は、間違っても傷つけるようなことはしないと思ってきたが、流れは完璧に変わった。
飛び立とうとするその翼を手折って、俺はを連れて帰る。

そうだ、もともと一番大事なのは穏便にことを運ぶことなんかじゃない。を俺の手元に、誰よりも近くに置いた生活を取り戻すことが一番の願いだった。
は俯いたまま、俺を見ない。


「本当のところはな。お前が戻ってこねえことには、こっちの都合が悪いんだよ」

俯かせていた顔をあげて、が俺を見る。胸の痛みを感じながら、それを無視して話を続けた。

「離婚して母親の方に引き取られた娘は、母親が死んじまってからは孤児同然の暮らし。実の娘がそんな状態だってのに跡部の連中は面倒一つみてやらねえと、世間はそうみるだろうからな。お前はスキャンダル捏造の温床だ。この先の俺に泥を塗りかねない。否定できるか?」
「…できない」

本当は違う。 世間が何て言おうと関係ない。
重圧の増し続けるこの先を思えばこそ、俺はに傍にいてほしいんだ。 
昔以上に俺を優しく抱き締めて、心からの眠りをくれなければ、とてもじゃないがやっていけない。
何を引き換えにしてもいいから、俺のもとへ戻ってきて欲しいと今日まで願い続けてた。

そっと目元をぬぐった後、は顔を上げて俺を見て、俺はそのから目を逸らす。視線を逃がした手元の湯飲みは、せっかくがついでくれたのに、一口も飲まないうちにすっかり冷めてしまっていた。


「いつも私って、考えが足りないのね。また景吾に嫌な思いさせるところだった」
「…わかりゃいい」
「来週くらいにって、お父さんに伝えておいて。荷物まとめたり、友達に挨拶もしたいから」
「必要ねえ。今すぐ荷物まとめて、お前はこのまま俺と一緒に戻れ」

あとは俺の方で全部処理する。
そう言うと、はもう静かに立ち上がって、無言で荷物をまとめだす。
俺は冷め切った茶を飲みながら、その様子を見ていた。





「本当に洋服は一枚もいらないの?」
「いらねえよ。俺が新しく全部揃えてやる」
「そう」

小さなトランク一つを手に、は玄関に立って部屋を振り返る。
名残惜しそうなその視線の先にあるのは、俺が余計な荷物としてトランクの中から出させた洋服じゃなかった。
白い布のかけられた台にある、遺骨と写真立てだ。

「トランクに入れたもの以外は、何も持って行ったら駄目なのよね」
「二度も言わせんじゃねえ。帰るぞ」


部屋を出てドアに鍵をかける直前に、は小さな声で母親に弔いの言葉をかけていた。
その口を塞いでやりたくなる。だが最後だと思って黙って許してやった。



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