南にある秘密 01



冬の午後だった。冷たい雨が、頬からも瞳からも染みてくる。
俺は雨の降る歩道に立って、その歩道に面したホテルラウンジの中を眺めていた。ラウンジは、窓際が天井まで届くガラス張りになっていて、そのガラス越しに注ぐ視線の先にはがいた。
は男と一番窓際の席に座っている。
は紺色のニットワンピースに、黒いブーツを履いていた。男はピンストライプのスーツに、整髪料で無造作を装ったような短髪。一般的な適齢期のカップルだ。

2人の距離は近い。せめぎあうゲーム中のチェス盤へ、置かれた駒同士のように接近していた。
俺は傘の柄を肩に預けて、首から下げていたカメラを構える。
の横顔に焦点を合わせてシャッターを切った。の動作は昔から小さくて、会話中にも最低限の身振りしか交えない。
男がへ、小さな箱を差し出した。
はそれを受け取ると、箱を開く。顔を上げて笑う。指輪を受け取っていた。
ラウンジの中は暖かさと湿度が心地よいバランスを保って、きっとの心を寛がせているだろう。そうして今度こそ、本当に誰かのものになってしまうのか。
俺の指先は雨の冷気にさらされて、動きが鈍くなる。
2人がラウンジを去るまで、途中で何度か息を止めながら、俺はシャッターを切り続けた。





特別なことが起こる時、ちゃんと予兆はあるものだ。
珍しく、帰りのホームが混雑していた。打ち合わせが長引いて、ちょうど退勤ラッシュに遭遇してしまう。
俺は携帯を持つ手をジャンパーのポケットに突っ込んだ。溜息をつくと吐く息は白い。
電車を待ちながら、寒さで気が急く。電光掲示板を確認しようと顔を右へ向けたとき、ちょうど俺の隣に人が立った。
だった。
数日前に、ホテルラウンジで恋人から指輪を受け取っていた
俺が学生のときから、ずっと特別な存在に分類してきた
は、橙色の混ざった黄色のコートを着ていた。ちょうどテニス部だった俺が着ていたジャージのような黄色。それは周りにいるモノクロな上着の集団から浮き上がって見えてしまう。
も俺にすぐ、気づいた。

「あ、仁王君だ」

呟く声が、水滴のように耳の奥へ響く。見開いた瞳で、は俺をしっかり捕まえる。そうして驚いた表情のまま、昔とほとんど変わらない顔で俺から目を逸らさない。

『電車がきます。黄色い線の内側にお入り下さい』

アナウンスが響く。やってきた電車のライトが線路を照らした。
俺は唇を笑う形にして、を見つめ返す。

「仁王君だよね」
「…柳生かもしれんぞ。アデュー」

俺が言うと、は笑った。
電車が滑り込んでくると、は列から外れたので俺も一緒に列から出た。2人とその場から動かずに、電車を見送ってしまう。
唐突にホームは静かさが増した。人の足音も、テレビのボリュームを下げるような滑らかさで遠ざかる。
先に動いたのはだった。

「仁王君、生きてたんだね。びっくり」
「…お前さんが言える台詞か」

からかい半分に俺が言うと、がさっきよりも面白そうに笑う。

「同窓会に1回も顔出してないのって、私と仁王君だけらしいね」
「変わり者同士の偶然…ってな。仕事帰り?」
「うん。帰って早くお酒飲みたい」

は顔をしかめて、軽く背伸びをしてみせる。黄色いコートはよく見ると、ところどころ汚れているところもあった。たぶん、この1着をいつまでも何年も着続けているのこだわり方も変わってない。高校のときも、ダッフルコートは毛玉ができても着ていたのを知ってる。
薄い化粧の唇で、は言った。

「仁王君は飲めるんだっけ」
「水ほどじゃないにしろ、耐性はある」
「じゃあ、また今度会う偶然があったら飲みいこうね」
「今の偶然は使えんの?」

軽い口調で俺が言うと、は一旦考える顔になって、ホームの天井を見渡した。電光掲示板の隣にある時計を見て、時刻を確認するそぶりだ。そうして口を開きかけたのを、封じるように俺は言う。

「終電前にはお開き。これでどうじゃ」

は両手で自分の頬を挟みながら言った。

「オッケー。わー、人と飲むとあんまり酔えないから、気取らないお店に行こう」
「俺達ふたりで、気取った店に行っても何も起こらんよ」
「あそっか。そうだね」

2人で改札へ向かう階段を下りた。
ずっと大切に思っていた相手に、俺は平気な顔ができる。
誘い文句だって簡単に出てくる。それは何度も何回も、ずっと想像の中で繰り返してきたからだ。

に触れそうな左側ではのぼせるほど緊張しながら、隣に誰もいない右側では諦めきった心がある。
心臓がふたつあるみたいな温度差だけど、両方ともが本物だ。


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