南にある秘密 02



駅の中にあるアイリッシュパブはとても混み合っていた。壁際のテーブルへ並んだスツールに、私達はほとんど肩が触れる距離で隣あわせに座っている。
仁王君は3杯目のビールジョッキを空にした。テーブルに肘をつくと、その腕に頭を乗せる。うつ伏せそうな姿勢だ。

「いかんのう。今日はザルな気分じゃ」
「何か嫌なことあった?」
「…なんとなく想像つかんか」
「無理だわあ、それ。仁王君て高校の時も私生活は謎だらけだったし」

言いながら制服姿の仁王君を思い出した。思い出せることが沢山ある。

「音楽の授業でさ、ピアノ弾かせられたことあったよね」
「あったのう。あれ、テストじゃったろ。弾けるセンテンスの長さが、そのままテストの点数になって」
「それそれ。仁王君すごかったなあ」

課題曲は「エリーゼのために」だった。
先生があらかじめ「3章節目まで弾ければ70点」と設定していた。ほとんどの人がそのボーダーまでしか弾かなかったのに、仁王君は曲の本当の最後まで弾ききったのだ。
クラスメイト全員が驚いた。
いつもは丸まった背中の仁王君が、ピアノに向かっている間は背筋が伸びていたと思う。制服のブラウスから伸びた仁王君のきれいな腕は、あんまりにも慣れた様子でピアノの上を滑らかに動き回っていた。

「弾き終わった後、俺、身体検査されたって知っとった?」

仁王君は言うと、唇を笑顔の形にする。

「誰から」
「まあまあ。ビールもらってくるけど、は何がいい」
「コーラ…はやめて、じゃあコークハイ」
「了解なり」

ジョッキとグラスを1つずつ持って仁王君が戻ってきた。私がお金を渡そうとすると、仁王君は「次への貸しにするからいらん」と受け取らない。スツールに腰掛ける時、仁王君は着ていたカーディガンを脱いで腰に巻く。シャツ1枚になった仁王君の体は、着やせするのか充分な骨格と筋肉を持っているように見えた。

「身体検査って誰から?」
「クラスの男どもじゃ。レコーダーか何かで音源偽装しとったと思ったらしい」
「…よく許したね」

身体検査をさせるのを、という意味だ。高校のときの仁王君は、人に体を触られるのを嫌がっていた印象がある。仁王君と付き合っていた女の子が「手もつないでくれない」と誰かに相談していた気がする。今思えば、それは贅沢な悩みだけど残酷な状態だっただろう。

「予想しとったしの。タネがないマジックに勝るもんはない」

仁王君は言いながら、私のグラスの側面に人差し指で文字を書いた。垂直な縦線1本に、横線を3本。水滴が流れて、すぐにそれは消えてしまう。

「文字?」
「おう、近いぜよ」
「なんだろう…わかんない」

首を傾げながら、私は仁王君が書いた文字らしきものを避けながら、グラスを指先で口へ運んだ。

「ヒント『え』。話変わるけど、は3年間、ずっと同じダッフルコート着とったな」

コークハイを吹き出しそうになった。

「なんで知ってんの?」
「そういや毎年同じやったなあ…と。黒のあれ。今はずいぶん派手な上着じゃ」

仁王君は笑って、私がスツールの背もたれに掛けている黄色いコートを見た。

「なんで黄色にした」
「テニス部のジャージの色に似てない?こんな色だったでしょ。だから選んだ」

私がグラスに口をつけたまま、くぐもって呟くと、仁王君は上半身をこちらへ向けて私の上着に顔を近づける。

「ああ…よくもまあ、あの趣味悪い色を」
「所属しといてよく言う」

隷属の間違いじゃろ、と言いながら仁王君は体を起こす。
謙虚と嘘が半分ずつかな。真田君にも幸村君にも、仁王君は従っていたように思えない。

「私、けっこうあの黄色は好きだったよ。レモンイエローより落ち着いてて、橙色よりも明るくて。まあ、テニス部の人達が着てるから良く見えただけってのは、あるけどね。でもいつか何かの洋服で身につけたいなあ…と。密かに野望があったわけよ」
「ふうん」
「で、このコート見つけたときに即買い。あと5年は着るつもり」
「執着体質」
「いいのいいの」

仁王君はジョッキを手に取ると、半分以上残っていたのを一気に飲み干した。私もそれにあわせてコークハイを飲み干す。それと同時にスツールを下りて、仁王君にビールと自分へのジンジャーハイを買ってきた。

「ありがとさん」
「だいぶ酔ってきたね仁王君。目が赤いよ」
「お前さんもな。……、うちの部に好きな奴がおったんか」

今更そんなこと、と思った。
うるさいほど店の中はざわめいていて、数秒私は考えた。仁王君はテーブルに両肘をついて腕組みすると、少し頭を下げて横目で私を見る。かわせるもんならかわしてみろ、見抜いてやる。そんな風に挑戦的な言葉が浮かぶ目つきだ。
私は溜息をついてから、仁王君の方へ体を向ける。

「さようでございます。好きな人がいました」
「教えていただけませぬか」
「あなたでございます」

同窓会の案内が来る度に、まず私は仁王君が来るかどうかを考えて、来ないだろうと判断して自分の欠席を伝えていた。期待して出席してから、仁王君の欠席を知って落胆するより、最初から行かなければ、会えないと確定するからがっかりしない。
高校のときから溜めて来た気持ちも、言葉にするとこんなに短く済んでしまう。
偶然再会して盛り上がったテンションと、アルコール摂取の理性低下で、誰にも言わなかったことを簡単に伝えることができてしまう。
仁王君がゆっくりと瞬きをした。

「あー…

声が掠れてる。私は涙が出ないよう、笑ってもしまわないよう口を引き締めた。

「うん」
「ちょっと待て」

仁王君はそう言うと、スツールの下に置いていたバックを膝の上に置く。中からカメラを取り出した。コンパクトなデジカメではなく、大きなレンズのついた一眼レフだ。
それを私に向かって構える。大きな目みたいなレンズが私のすぐ傍に迫った。

「さっきのもう一回言ってくれんか」
「やだ」
「そこをなんとか」

仁王君がシャッターを2、3度続けて切った。

「言ってくれんなら、言わせるように出方を変える」
「…仁王君のことが高校のとき好きでした」
「どこで終わった?」

カメラを構えた姿勢のまま、仁王君は言う。

「いつから俺のこと好きじゃなくなった?」
「未定。そのうち、そうなると思う」

まだ気持ちは変わらない。ずっと眠らせているだけで、胸の中から動かない。
仁王君がカメラを外す。カバンの中に戻した。
しばらく2人とも黙って、自分の飲み物に口をつける。

「こないだ…男とホテルのラウンジにおったろ」
「ん?ああ、いたいた」
「指輪をもらって」
「返してもらったの」

結婚を控えて、新居への引っ越し準備をしていたら、私からもらった指輪が出てきたと彼から電話をもらった。彼は電話で、今更だけど指輪を捨ててしまうのは気がひける、という。それで私が引き取ることにして、軽くお茶を飲んでお互いの近況を楽しみあったのだ。
嫌な別れ方をしたわけではなかった。だから簡単に会えたんだと思う。
ただ、彼と付き合ってる間も私は仁王君のことが心の底にずっとあったし、彼は彼で、もっと100%の全力で彼の事だけを愛する女性に出会う事ができた。
彼にも私にも、良い形に治まったと思っている。
仁王君は私の説明を聞く間、ずっと私を見ていた。

「そんなに、哀れみを感じる話かな」
「いや…そうじゃなくて、証拠写真が役目を失ったなあと思って」

なんの役目だろう。仁王君はズボンのポケットから1枚の写真を出して、私の前に置いた。
写真を凝視する。

私と彼が写っていた。数日前のホテルのラウンジで会ったときだ。

「これって、撮ったのは」
「俺」
「…信じられない」
「俺は、こういうこともする奴よ」
「なんか私、すごく綺麗に写ってる」

窓ガラスに雨粒が沢山ついて、その水滴がキラキラ光って私がドラマの中の人みたいに見えた。
写真を手に取った。驚きが溜め息に変わる。
これが仁王君に撮られたものだと思うと、何より嬉しかった。

「もらっていい?」
「駄目。オリジナルはそれしかない」
「そっかあ…残念。よく撮れたね。すごい偶然」
「別に偶然じゃない。ずっと前からお前を撮ってきた。誰にも内緒で、沢山」

自然な笑顔で仁王君は静かに言う。
そのとき私は『実は南極にも白熊はいるんですよ』と言うジョークを思い出した。
多くの人が知らないだけで、ずっとずっと南極で白熊は発見されるのを待っていたんですよ。誰からいつ聞いたのかも思い出せない。けれど今、南極に浮かぶ大きな氷の中に、白熊が眠ってプカプカ浮かんでいるのを想像した。
それは仁王君がずっと私に見せなかった、秘密の固まりかもしれない。

「それって…ただの被写体っていうわけじゃあ…」

怖いような、知りたいような。仁王君は首を横に振る。「お前さんは、特別な意味を込めた対象」と言い切った。

「というわけで今から俺んち、来るじゃろ」

仁王君は私の手から飲みかけのグラスをそっと取り上げて、テーブルの端へ避ける。私の返事も待たずにスツールを下りると、腰に巻いていたカーディガンをほどいて腕を通した。

「ほれ、もさっさと立ちんしゃい」
「え、ちょっと、余韻とか整理とか…ちょっと待ってよ」
「待たん。今の状況で周りに他人がおるのは我慢できん」
「さようですか…」

まるで仁王君しか出口の知らない迷路だ。それに飛び込んでしまった。
飛び込む決意はできていなかったけれど、もう遅い。
でも、これでいいんだ。
迷路の中はきっと森みたいに静かで誰もいなくて、きっと密やかで暖かい。
仁王君が手を差し出す。
私はすぐ、そこに手を重ねた。



end.

桜木様、リクエストありがとうございました






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