独りの条件 10


そっと落とされた仁王君のキスは、もう迷うことなんてないって私を安心させてくれる。

「…仁王君」
「なん?」
「これ…春から私が通う学校のパンフレット」

鞄の中から出した学校案内を、私の前に立つ仁王君に渡した。
それを受け取る仁王君の手が、少し震えてる。

「これが、の選んだ学校、か…」


ことさら何でもないような顔をしてるけど、きっとすごく動揺させてしまったみたい。
それを裏付けるように、仁王君の前髪の間から覗く右の眉が少し歪んでるのがわかって
申し訳ない気持ちになる。

みんなを欺く『詐欺師』なんて呼ばれてる仁王君。
だから私以外の人は多分誰も気付いて無いんだろうけど・・・・
仁王君には、何か言いたいことを我慢したり嘘をついてるとき、右の眉をほんの僅かに歪める癖がある。
普通に見てるくらいじゃわからないほど、ほんの僅か。


こうやって正面から仁王君を見つめる時間を積み重ねてきた私には、それが一瞬で見抜ける。
このことは内緒で、仁王君にだって教えてない。
彼自身も知らない彼を知っていることが、たまらなく嬉しい。

さっき真田君が朝練を早退していいって言ったのも、嘘なんだって実はすぐわかった。
いつもどおりの口調とは裏腹に、前髪の間からかすかにのぞいた右眉が一瞬だけ歪んだ。

でもそんな嘘をついてまで私に会いにきてくれる仁王君が愛しくて、簡単に騙されたふりをしてしまう。
それでいい。
私にとっては仁王君の言葉だけが真実だから、それでいい。
私のために紡ぐあなたの嘘は、こんなに甘く私を包む。



学校案内を受け取りはしたものの、じっと表紙を眺めたまま仁王君はページを開こうとしない。
唇の端を噛み締めながら、学校案内から顔を背けるように斜め下を向いた。

「…俺にこんなもん渡して、どうするつもり?」
「読んでほしいの。私が春からどんな学校に通うのか知って欲しい」

今、仁王君の目には、さぞ残酷なことを言う女に映ってるだろう。
助けてほしい、独りにしないでほしいと仁王君が叫んでいるのが、耳の奥に聞こえてくるようだ。
学校案内を握る締める仁王君の手が、はっきりと震えていた。

、俺はやっぱりお前を…」
「いいから。読んで」

読んでくれたら、何も言わなくてもわかるから。
そう付け足すと、諦めたように溜息をついて仁王君はゆっくりと資料のページを繰った。


その目が、一箇所で驚いたように見開かれる。

「…本当に、ここに通うんか?」
「うん。願書を提出しなおして、都内の…その製菓学校にしたんだ」

まだ信じられないような顔で、仁王君は私を見た。 驚いて当然だ。
慎重に言葉を選んで、そのわけを話した。

「本気で都外の学校に行くつもりだったんだよ。今でも仁王君が大好きで苦しい。大好きだから苦しい。
  逃げ出したかった。でも…やっぱり私が仁王君から離れるなんてできないってわかった。
  だから、せめてここに残る。 仁王君の傍にいたい」

この前、仁王君の家に泊まった帰りは都内の製菓学校を見学して
入校試験の手続きも直接済ませるためだった。
仁王君に内緒にしたのは、驚かせたかったからじゃない。
あんな風に抱かれて、一時のきまぐれで「都内の学校に変える」
なんて言ってると思われたくなかったからだ。

結果的に仁王君の気持ちを試すようなことになったけど、
私自身も仁王君に対する気持ちの深さを思い知らされた。

とてもじゃないけど、離れるなんて。


仁王君は、どう思ったかな。 ちゃんと安心してくれたかな。 それだけが一番心配。


私の前に立っていた仁王君はゆっくりと腰を落として、その場にひざまづいた。
そのまま上半身を倒すと、椅子に座る私の太ももに顔をうずめてくる。

「仁王君?」
「……、ありがと」


そうして、声を殺しながら仁王君は泣いてしまった。
荒い息遣いだけしか聞こえないけど、私の足にしがみついて涙をこぼしてる。

感情を表に出すのが、大嫌いな仁王君を昨日だけじゃなく今日も泣かせてしまうなんて…
今の今まで、どれくらい私は仁王君を不安にさせていたんだろう?


でも、泣かないでなんて言えない。 今の仁王君は安心しきって泣いてるってわかるから。
ずっと溜め込んできていたものを吐き出すように、心全部で私に甘えてくれてる。

普段はあんなに大人びてる仁王君が小さな子供みたいだと、その柔らかい猫っ毛をなでながら思う。
私以外の人には絶対触らせようとしない仁王君の髪。
このまま、ずっとこうしていたい。


「…

涙に震える声で仁王君が呟いた。 顔はまだ私の太ももあたりにうずめたままだ。

「なに?」
「俺…沢山傷つけて悪かった。でも、俺だってあんな思いは二度としたくない」
「うん…ごめんね」

私にとっても辛い1ヶ月だったけど、きっと仁王君の方が何倍も辛かったはずだ。
卑怯な私のせいで仁王君を傷つけたけど、もう二度と仁王君を想う気持ちから逃げたりしない。

「…もしね。仁王君から別れたいって言われたら、その時は別れる。
  でも私はずっと好きだし、仁王君が望んでくれる限りは別れたいなんてもう言わないから」


全てを仁王君に委ねてしまおう。 私はいつだって仁王君のものだ。
ずっと前からそうだけど、これからはそれ以上にあなたのものになる。

私の言葉に顔を上げた仁王君。
はっきりと涙のあとを頬につたわせながら、私に咎めるような不満のこもった目を向ける。


「…から別れたいって言われても、他に好きな奴ができたから別れたいって言われたって
  俺は絶対に別れてなんかやらん。 が嫌がったって…離れたりするもんか」

私の瞳を見据える仁王君の目は、言葉の響きとは反対に不安な影が映っていて
また今にも泣き出しそう。

ギュッと制服のスカートが握り締められたのを感じる。


「それでいいよ。どんなに傷つけられたって、私は仁王君の側がいい」


私の全てが仁王君のもの。 あなたにどうやったら、この気持ちが伝わるんだろう。

今度は私が上半身をかがめて仁王君にキスをした。
言葉よりも、確かに伝わってほしい。


目をつむって私のキスを受けると仁王君は小さく呟いた。

「あと少しの間だけ、髪を撫でてくれんか」

それだけ言って、私の膝の上にまた頭を預ける。


あなたが望むだけ、私が望むだけ、私達の時間は終わらない。
誰よりも愛しい髪を撫でながら、私はその心を抱き締める。


end



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